位相空間

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さて、「CAMRの胎動-解題!実用理論辞典」シリーズの続きで、今回は位相空間です。
まずは、論文を見てみましょう。



★☆★☆★☆★☆★☆★☆以下引用★☆★☆★☆★☆★☆★☆



 「位相空間の中では、ある一瞬の力学系についての全情報は一点に集まる」のである。もしこれが本当なら素晴らしいことではないだろうか。先に「アフォーダンス(その2)」のところで述べたように、運動を構成する様々な要素とその相互作用に関するすべての情報を含んだ結果を、一つの点としてこの図では見ることができるかもしれない。



 図1を見ていただきたい。これは満期産乳児(A)、低リスクの未熟児(B)、高リスクの未熟児(C)の妊娠後40週における、背臥位での蹴り運動時の一側の膝の動きを表したものだ。膝の速度と位置が一点で表されている。速度と位置という二つの軸からなる二次元の平面が、この場合の位相空間となる。乳児の運動は一瞬一瞬に変化するから、時間の経過とともに位相空間の中の点も移動する。それぞれの図の軌跡は、3分間に起きた運動の変化をたどったものだ。



 満期産児の図は、大まかに8つの円を描いている。つまり3分間に8回の周期運動を繰り返している。一番動きが速く、運動の範囲も大きい。その軌跡は空間内のある範囲に留まっていることが分かる。低リスク児の軌跡は、3回の周期運動しか見せていない。運動の速度が低く、運動範囲も小さい。しかしながらこの軌跡も満期産児のものと同様に閉じた円を描いている。つまりパターン自体あるいは運動の質は満期産児と変わらないことが視覚的に理解できる。



 このように運動がある領域内に留まっている場合、その領域をアトラクター領域と呼ぶ。この場合、アトラクター領域は閉じた円を描いているので周期的なアトラクターと呼ばれる。これは十分納得のいくことで、蹴る、走る、ジャンプなどの下肢運動は普通、周期運動である。このようなアトラクターは、膝の角度や速度に一定した関係があること、すなわち私たちがよく言うところの協調性があることを示している。



 高リスク児は、運動範囲も小さく速度も低い。しかも満期産児等に比べてアトラクター領域はより広い範囲に分散する。高リスク児の運動は角度や速度に安定した関係が築かれていない。このように位相空間を使うことによって、運動の特徴を理解しやすくなるのである。



 ただし、この場合の位相空間上の一点はそのシステムに関わる全ての情報を含んでいるわけではない。それでもⅡSTEP会議のセラピスト達は、以下のように説明している。「人の運動システムは高次元なシステムだが、低次元に振る舞う。」つまり人の運動を構成する要素はたくさんあるから、情報を与える点が存在する空間は、速度と位置だけを持った二次元平面ではなく、もっとたくさんの軸を持った多次元空間が必要かといえばそうでもない。それは結局低次元に振る舞うのだから二次元平面で充分だということらしい。



★☆★☆★☆★☆★☆★☆引用終わり★☆★☆★☆★☆★☆★☆



位相空間というものは、「現代科学の最も強力な発明の一つ」とも言われているそうです。
こう書くといろんな声が聞こえてきそうです。
「うん、その通りだ!」、「そんな大袈裟な!」、等々。
さて、あなたの反応はどちらでしょうか?



僕は前者でした。なぜなら、物理空間の呪縛から解放されるからです。僕たちはどうしても視覚情報の影響を大きく受けるので、目に見える物理空間というのはとてもわかりやすく、絶大な信頼を置いています。あたかも、物理空間こそが宇宙を支配する王様であるかのように。



それなのに、この位相空間というやつは、なんてことをしでかしてくれるのでしょう。たった二つの要素を軸にするだけで、これまで目に見えなかった運動の特徴を、見事に描き出しているではないですか。



そう考えると、今、目に見えている世界を僕たちはどの程度理解しているのか怪しいものです。これまで絶大な信頼を寄せていた物理空間からでさえ、十分な情報を得られていなかったわけですので。
見えないものを見える化する。そんな力が位相空間にはあるんですね。



【引用・参考文献】
西尾幸敏:実用理論事典-道具としての理論(その1).上田法治療研究会会報, No.18, p17-29, 1995.
西尾幸敏:実用理論事典-道具としての理論(その2).上田法治療研究会会報, No.19, p1-15, 1995.
西尾幸敏:実用理論事典-道具としての理論(その3).上田法治療研究会会報, Vol.8 No.1, p12-31, 1996.
西尾幸敏:実用理論事典-道具としての理論(その4).上田法治療研究会会報, Vol.8 No.2, p76-94, 1996.
西尾幸敏:実用理論事典-道具としての理論(その5).上田法治療研究会会報, Vol.8 No.2, p120-135, 1996.
西尾幸敏:実用理論事典-道具としての理論(その6 最終回).上田法治療研究会会報, Vol.8 No.3, p120-135, 1996.



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運動学習(その2)

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さて、「CAMRの胎動-解題!実用理論辞典」シリーズの続きで、今回は運動学習(その2)です。
まずは、論文を見てみましょう。



★☆★☆★☆★☆★☆★☆以下引用★☆★☆★☆★☆★☆★☆



 人は運動学習において「何を学んで」いるのだろうか?筋の活性化などのプログラムでないとしたら・・・



 システム理論では、「運動戦略」が学習されるということになるのだろう。運動戦略とは、運動システムを構成する様々な下位システムを協調させる規則のようなものである。少し具体的な例で考えてみる。何人かのグループで「本を作る」場合を考えてみよう。一人のリーダーが、自分を含め他のメンバー全員の行動予定表をみっちり作り、行動予定表からずれていないか常に観察し、思い通りにいくように指示を出し続ける、といったやり方はあまり現実的ではない。普通、グループの一人一人は自律的な存在である。一人一人の趣味や特技はもちろん、その人の持つ生活基盤も違っている。従って自分の思い通りに事を運ぼうとするリーダーはよく存在するが、その思惑通りに事が運ぶ事はまれである。



 これは人間という存在がかなり独立して振る舞うからである。つまり他人の思い通りにはなかなか振る舞わない。各人にはそれぞれの希望や夢がある。各人それぞれに、振る舞いを決定するためのルールがある。たとえば一人は、実際に発表したい作品がある。他の一人は皆とわいわい楽しみたいと思っているだけかもしれない。一人はグループの他のメンバーに好意を持っているのかもしれない。そういった人達の集まりにとって、たまたま「本を作る」という目標はとても「価値」のある課題となっている。そしてこの課題を達成するためにはやはりいくつかの規則が存在する。たとえば「活動には休まず、参加する」とかいったものである。



 この例で、人の運動システムを考えてみよう。人という存在は、何か意味のある課題を持つ。たとえば「食物を見つける」とか。その課題を達成するために個性の異なる、しかもかなり自律的なシステムが協力しあう。たとえば力を生み出す筋肉のシステムとか、ある方向への動きを可能にしたり制限したりする骨・関節のシステムとか記憶や認知の役割を持つ神経系システムとかである。それぞれのシステムは、それぞれのルールを持つ。骨・関節は重力の法則に従うし、筋は硬さを生み出すための独自のルールを持つ。それで全体として協力しあうための規則、つまり「運動戦略」が必要となる。



 様々な「運動戦略」が存在すると考えられるが、いろいろ経験してみるとやはり価値のある「運動戦略」が最終的に学習されるようになると思うのだ。たとえばエネルギー効率が一番良いとか。長く立位をとっているときは、筋の作用だけによって膝を伸展位に保つよりは、膝関節の靱帯などの制限なども利用した方が楽だとか、そのためには重心線が膝の前を通るような身体のアライメントをとることだとか、そんなことだと思う。



 だから運動戦略を教えられるかどうかと言えば、教えられない。患者さんの身体の状態とある環境が出会ったときにどのような運動戦略が生ずるか、わかりようがないではないか。



 だが患者さんの運動戦略を変化させることはできる。私たちは患者さんの変化が好ましい方向に向かうことを期待して、いろいろな構成要素を変化させたりする。たとえば関節可動域を、筋力を、あるいは意欲などを変化させることによって、一つ一つのサブシステムの振る舞いを変えることによってである。それは最終的に全体の振る舞いを変えてしまうかもしれない。



 たとえば「意欲を高める」ことは、ある運動をより高頻度に生み出すかもしれない。それは局所的な筋力を高めるかもしれない。全体的な持久力を高めるかもしれない。しかしそれは同時に運動戦略を変化させ、その変化した運動戦略がより異なった運動とその秩序を生み出す。そういった期待はできる。ただその過程を予測することはできないのである。



★☆★☆★☆★☆★☆★☆引用終わり★☆★☆★☆★☆★☆★☆



多くのセラピストが古典的な運動プログラム説から、なかなか脱することができないでいます。文献などを読んで頭では理解したつもりでも、実際の臨床場面では旧態依然としたことを繰り返している、というのはよくあることです。



CAMRでは「人は生まれながらの運動問題解決者である」という考え方を重視しています。これを理解し実践できるようになるためには、運動学習において「何を学んでいるか?」という点を腑に落ちるまで深く理解する必要があります。



僕は随分長い時間を費やしてしまいました。これからの時代の中心となる若いセラピストたちには、しっかりポイントを押さえてどんどん先に進んでいって欲しいと思います。



【引用・参考文献】
西尾幸敏:実用理論事典-道具としての理論(その1).上田法治療研究会会報, No.18, p17-29, 1995.
西尾幸敏:実用理論事典-道具としての理論(その2).上田法治療研究会会報, No.19, p1-15, 1995.
西尾幸敏:実用理論事典-道具としての理論(その3).上田法治療研究会会報, Vol.8 No.1, p12-31, 1996.
西尾幸敏:実用理論事典-道具としての理論(その4).上田法治療研究会会報, Vol.8 No.2, p76-94, 1996.
西尾幸敏:実用理論事典-道具としての理論(その5).上田法治療研究会会報, Vol.8 No.2, p120-135, 1996.
西尾幸敏:実用理論事典-道具としての理論(その6 最終回).上田法治療研究会会報, Vol.8 No.3, p120-135, 1996.



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運動学習(その1)

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さて、「CAMRの胎動-解題!実用理論辞典」シリーズの続きで、今回は運動学習(その1)です。
まずは、論文を見てみましょう。



★☆★☆★☆★☆★☆★☆以下引用★☆★☆★☆★☆★☆★☆



 シュミットによると、「訓練によって起こる持続的(半永久的)な運動変化」のことである。長い間この分野では、ある思いこみが存在していた。たとえば、「豊かなフィードバックはより良い運動学習を生む」というのものだ。特に小児の分野では、「豊かなフィードバックによって動機を高め、より適応的な行動を導き出す」とする行動療法などの影響もあって、私たちセラピストも「より早く、より適当なフィードバックをたくさん与えること」が大切と思ってきた。これは昔ソーンダイクという人が、フィードバックは接着剤のように刺激と反応を結びつけると考えて以来の伝統であるらしい。



 ところが1980年代のはじめ頃から、豊かなフィードバックは必ずしも運動学習を促進しているわけではないということがわかってきたのである。たとえばシュミットの研究では、ある運動を学習する被験者を4つのグループに分けた。1番目のグループは課題を一度練習する度にフィードバックを与えられる。2番目のグループは、5回に一度フィードバックを与えられる。3番目、4番目のグループは、それぞれ10回、15回に一度フィードバックを与えられた。その練習期間中にパフォーマンスが測定された。結果、一回毎にフィードバックが行われるものが一番パフォーマンスが改善した。また15回に一度のフィードバックのものが一番改善が見られなかった。



 「なんだ、ちっとも間違っていないじゃないか。フィードバックをたくさん与えたグループの方が結果がいいじゃない。」いや、まったくその通り。ところが、さてお立ち会い。練習終了後2日目にフィードバックなしで行われた保持テストでは、結果は逆転した。もっともパフォーマンスが良かったのは15回毎のグループ、最低は1回毎のグループだった。もし運動学習が「持続的な変化」を問題にしているのなら、1回毎のグループはちっとも運動学習をしないで、一時的な運動の改善だけを起こしていたことになる。



 シュミットによると従来運動学習の効果を測るために、練習中のパフォーマンス(その場で観察される運動)の変化を見ていたことが問題である。情報をより高頻度に、より素早く、より正確に与えること、すなわち豊かなフィードバックを与えれば、練習中のパフォーマンスは一時的に改善する。2日目の保持テストにおいて、結果の悪い1回毎のグループにフィードバックが与えられるとパフォーマンスが改善し、与えられない時には低下することがわかっている。そして、その一時的なパフォーマンスの改善がより良い運動学習につながるとも考えられてきたのである。



 フィードバックが運動学習を改善するというのは、間違いのない事実であるらしい。しかし豊かなフィードバックはパフォーマンスを著しく良くするが、運動学習を促進しない。さらにシュミットは、一時的なパフォーマンスの改善は、むしろ運動学習の妨げになるかもしれないとすら述べている。この具体的な説明については運動学習(その2)で述べる。



 つまりその場で観察される一時的な運動(パフォーマンス)の変化と、運動学習(訓練によって起きる持続的な運動変化)は、まるっきり異なった現象ということだ。これは私たちにとって新しい視点である。私たちは長い間、人の運動変化はなにもかも同じものと考えてきた。一時的な運動変化と持続的な運動変化は同じ線上にあると、当然のごとく考えていたのである。だから、一時的な運動(パフォーマンス)が変化すれば、それを繰り返すことによってやがて永続的な運動変化(運動学習)につながると考えていたのである。



 少し話がそれる。僕が新人の頃、ある研修会に参加した。そして、さる有名なインストラクターのデモンストレーションを見た。確かに、子供の姿勢や運動はその場で変化した。あたかもその場で新しい運動パターンを学習したように見えたものだ。皆は驚きのため息をもらした。その時ベテランのPTが質問した。「私の経験でいうと、訓練室を出るときには子供の運動は元に戻ってることが多いんですけど・・・」インストラクターがそれに答えて、「それは一時的な問題です。もっと長い目で見てください。一時的な変化でも繰り返し行えば、やがてその子のものになります」といった内容の説明を行った。それで質問者は納得し、その場は収まり、皆ほっとし、僕も「ああそうだな」と妙に納得したのを覚えている。でもそうではなかった。一時的な変化は、持続的な変化に結びついている可能性が低い。その二つの変化は異なったもの、それぞれ独立した現象であるかもしれないのだ。



★☆★☆★☆★☆★☆★☆引用終わり★☆★☆★☆★☆★☆★☆



以前にも少しコメントした、一時的な運動変化と持続的な運動変化についてここでも触れられていますね。
この論文が書かれたのはもう25年くらい前になりますが、運動学習についてはいまだに誤解がたくさんあると思っています。
この機会に、いったい「何を学習しているのか?」ということについて一緒に考えてみましょう!



【引用・参考文献】
西尾幸敏:実用理論事典-道具としての理論(その1).上田法治療研究会会報, No.18, p17-29, 1995.
西尾幸敏:実用理論事典-道具としての理論(その2).上田法治療研究会会報, No.19, p1-15, 1995.
西尾幸敏:実用理論事典-道具としての理論(その3).上田法治療研究会会報, Vol.8 No.1, p12-31, 1996.
西尾幸敏:実用理論事典-道具としての理論(その4).上田法治療研究会会報, Vol.8 No.2, p76-94, 1996.
西尾幸敏:実用理論事典-道具としての理論(その5).上田法治療研究会会報, Vol.8 No.2, p120-135, 1996.
西尾幸敏:実用理論事典-道具としての理論(その6 最終回).上田法治療研究会会報, Vol.8 No.3, p120-135, 1996.



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因果関係論

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さて、「CAMRの胎動-解題!実用理論辞典」シリーズの続きで、今回は因果関係論です。
まずは、論文を見てみましょう。



★☆★☆★☆★☆★☆★☆以下引用★☆★☆★☆★☆★☆★☆



 さて、因果関係について少し考えてみよう。ビアが自動車の例を扱っているのでこれを使ってみる・・・



 非常に分析的だが、まだ一度も自動車を見たことがない人がいたとする。彼が道路端に座って、自動車というものを観察する機会を得る。彼は次のように考えるだろう。「どうやら自動車というものは、人やものをある場所から他の場所へと運ぶ機械であるらしい」



 そのうち一台の自動車が彼の前で止まる。どうやら動かなくなってしまったようだ。運転手が降りてきて、ラジエーターのキャップをはずし、水を注ぎ込む。その後再び自動車は走り始める。機械一般が外部からの燃料補給を必要とするところから、観察者は「自動車は水を燃料として動く機械である」と考えるかもしれない。無理からぬことである。水は紛れもなく自動車に対する入力であり、走るというのはそれに続く出力である。二つの出来事は時間の経過と共に起こる。



 このように因果関係論というのは、現象の過程そのものではなく、観察者の心の中で創られた物語である。自動車のシステムを観察者が外から眺めて、そう認知したというだけなのだ。



 もし何が起きているのか正確に理解したければ、自動車のことを良く知っておく必要がある。知っていればラジエーターに水を入れることの意味は誤解されることはない。このことは正常運動変化や脳性運動障害を見る場合にも言えることなのだろう。私たちは人の運動とは何かと言うことを良く知っておく必要がある。ところが実際には、医師・理学療法士・作業療法士の間で、運動とは何かについて議論されることはまれである。私たちはまるでそんなことはもう分かっているかのように振る舞うことが多い。ところがちっとも分かってなんかいないのだ。



★☆★☆★☆★☆★☆★☆引用終わり★☆★☆★☆★☆★☆★☆



僕たちは、ある現象を理解しようとする際に、因果関係を想定することがよくあります。例えば、〇〇が原因で、□□という結果になった、というふうに。
ところが、そう考える根拠は?というと、実はかなりあいまいです。



哲学者の大森荘蔵によると、そのように直線的な因果関係を想定できるような現象はほとんどない、と言っています。そのために、彼は因果関係という言葉は使わずに因果連関という言葉を使っているくらいです。



僕たちセラピストも、何らかの問題があれば「その原因は?」と考えることが多いと思います。しかし、人の運動システムというのはまだよくわかっていないことがたくさんあります。



上の引用にあるビアの例のように、あまりよくわかっていないシステムにおいて安易な因果関係を想定すると、間違ってしまう可能性があるということは理解しておいた方が良いでしょう。



【引用・参考文献】
西尾幸敏:実用理論事典-道具としての理論(その1).上田法治療研究会会報, No.18, p17-29, 1995.
西尾幸敏:実用理論事典-道具としての理論(その2).上田法治療研究会会報, No.19, p1-15, 1995.
西尾幸敏:実用理論事典-道具としての理論(その3).上田法治療研究会会報, Vol.8 No.1, p12-31, 1996.
西尾幸敏:実用理論事典-道具としての理論(その4).上田法治療研究会会報, Vol.8 No.2, p76-94, 1996.
西尾幸敏:実用理論事典-道具としての理論(その5).上田法治療研究会会報, Vol.8 No.2, p120-135, 1996.
西尾幸敏:実用理論事典-道具としての理論(その6 最終回).上田法治療研究会会報, Vol.8 No.3, p120-135, 1996.



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カオス(その1)

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さて、「CAMRの胎動-解題!実用理論辞典」シリーズの続きで、今回はカオス(その1)です。
流れ的には少し振り出しに戻るような感じなのですが、とても重要な内容ですので取り上げました。
まずは、論文を見てみましょう。



★☆★☆★☆★☆★☆★☆以下引用★☆★☆★☆★☆★☆★☆



 これまでのところ、複雑な現象をそれぞれ単独の構成要素に分解して、その振る舞いを調べても結局全体の結果との関係を明確にできない、と述べてきた。そこで関係を明確にするための尺度をこれまでとはまるっきり変えてみたらどうだろう。まるっきりこれまでとは違う尺度で同じ現象を見ると、それまではっきりしなかった物が明確になってくることがある。



 丁度、最近流行の立体図を見るような物だ。普通に見る限りでは、ランダムな点の集合にしか見えないのだが、寄り目になるようにして見ると、突然そのランダムな点の図から、鮮明な立体像が浮き出すのである。そのこれまでとはまるっきり違った尺度を提供するのが、アフォーダンス理論やこのカオス理論であると私は考えている。



 さて、カオスとは何だろうか?私の考えるところでは、(ほんとに私は勝手にものを考えるのが好きである)カオスは、ある現象の性質を表す言葉である。たとえば祭りという現象を言い表すときには、「にぎやか」とか「心うきうき」、「非日常的」などと表現する。どの表現もそれなりにしっくりくるものである。



 ところが世の中には、なんと表現して良いのかわからない性質がある。たとえば人の運動である。以前述べたように、人は同じ運動を繰り返すのが苦手である。プロゴルファーのスウィングを分解写真のような物で記録してみよう。一回一回で見ると、決して細かいところは同じ運動を繰り返していないことがわかる。プロでさえそうなのだから、アマチュアはどんなにひどいことか。それにも関わらず、全体としては紛れもなく、見てそれと分かるその人固有のフォームを作る。つまり同じ運動を繰り返していないのに、その人らしさを失うこともない。細かいところは違っていても、その人の雰囲気だけは安定している。



 また従来複雑な予測しがたい現象は複雑なシステムから、簡単な現象は簡単なシステムから生じると考えられてきた。ところが人のような複雑な運動システムからは「位相図」で述べたような比較的安定した単純な運動が出てくるし、水を温めるといった単純なシステムから、予測不可能な複雑な運動が生まれる。このような性質も言い表しがたい。



 しだ類のような植物を見てみよう。茎の分かれ方や葉の付き方は、一見すると規則正しく見えるのだが、良く見るといくつも不規則さを見つけだせる。子どもの頃、規則正しくないのが納得できず、次から次へと枝を取っては確かめたことがある。葉の付き方などになんだかそれらしいきまりが見られそうなのだが、あるいは直感的にはきまりがあるはずだと思いながらも、それを見つけられないもどかしさがあった。実際には2~3の簡単な規則で、しだの葉の形はコンピュータ上に再現できるのであるから、直感は正しかったわけだ。いずれにしても見ただけでは、規則正しいとも正しくないともいいがたい。



 前項の「位相空間」を見ていただきたい。人の運動は決して前と同じ軌跡を繰り返さない。しかも中には随分違った軌跡もある。だからといって、この運動の性質を規則正しくないとは言えない。なぜならその軌跡は飛び出すことなくある範囲内にとどまっている。これは正確に同じ軌跡を繰り返すと言った秩序ではないが、無秩序とは言えない何らかの秩序を持っているのに違いない。その性質、これまでの見方では秩序など見られないのだが、それでも何らかの秩序を持っているといった性質をカオスと(カオス学者達は)呼んでいるのではないだろうか。



 カオスは従来、「無秩序」と訳されてきたが、この訳語がふさわしくないのは上に述べたとおり。とりあえずここでは従来の見方では秩序があるとは言えないが、決して無秩序とは言えない性質をカオスと呼ぶことにする。



 このカオスと呼べる性質を持った現象は身の回りにたくさんあるらしい。株価の変動から、日々繰り返す天気、生物の個体数の増減、心臓の鼓動、呼吸・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・その他たくさん。



ここで言っておきたいのは、もし人の運動がカオスという性質を持っているなら、その運動を変化させようとする私たちはそれを知っておく必要があるのではないだろうか、ということだ。そのうち、このアイデアを基にした運動変化のモデルが本シリーズで紹介される予定である。そのモデルからは訓練場面での新しい価値や意味が提案されるはずである。



★☆★☆★☆★☆★☆★☆引用終わり★☆★☆★☆★☆★☆★☆



カオスや複雑系と言ったアイデアが一時期流行りましたね。これらは画期的なアイデアで、世界がこれまでとは違ったふうに見えるような気がしたものでした。
そして、人の運動を見る際にもとても示唆に富んだ視点を提供してます。大まかな内容くらいは理解しておきたいものですね。



【引用・参考文献】
西尾幸敏:実用理論事典-道具としての理論(その1).上田法治療研究会会報, No.18, p17-29, 1995.
西尾幸敏:実用理論事典-道具としての理論(その2).上田法治療研究会会報, No.19, p1-15, 1995.
西尾幸敏:実用理論事典-道具としての理論(その3).上田法治療研究会会報, Vol.8 No.1, p12-31, 1996.
西尾幸敏:実用理論事典-道具としての理論(その4).上田法治療研究会会報, Vol.8 No.2, p76-94, 1996.
西尾幸敏:実用理論事典-道具としての理論(その5).上田法治療研究会会報, Vol.8 No.2, p120-135, 1996.
西尾幸敏:実用理論事典-道具としての理論(その6 最終回).上田法治療研究会会報, Vol.8 No.3, p120-135, 1996.



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生態学的測定法(その2)

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さて、「CAMRの胎動-解題!実用理論辞典」シリーズの続きで、今回は生態学的測定法(その2)です。
まずは、論文を見てみましょう。



★☆★☆★☆★☆★☆★☆以下引用★☆★☆★☆★☆★☆★☆



ここではこのアイデアを違った視点から検討してみたい。私の勉強会の学生の一人はこのアイデアに即座に反論した。「どのくらいの幅なら通れるか、通れないかを判断してもらってもしかたないんじゃありませんか。実際にできるかどうかが問題だと思います。いくらできると判断しても実際にはできないこともあるんですから。実際に通ってもらって最小の幅をその人の能力と考えるべきではありませんか。」つまりその人がどう判断するかよりも、その人が実際に持っている物理的な能力の方が重要なのだ、とその学生は言いたかったのである。案外、生態学的な視点と物理学的な視点との境界線はそのあたりにあるのだろう。



 実際には、「できる」と考えることと「できない」と考えることは大きな結果の違いを生む。少し話をそらします。私がアメリカに留学しているときに、一人の若い日本人と友人になった。二人とも同じ英会話学校に通い、ともに「トシ」というニックネームを持っていた。彼は何事にも積極的で、よく私を誘っていろいろなところに行き、いろんなものを食べ、いろんな人と友達になった。一方私と言えば、彼のする事をそばで見ていたものだ。元来引っ込み思案でもあるが、心に常にあったのは「私は英語が理解できないし、しゃべれないからな」という思いであった。「もう少し理解できれば、もう少し話せれば、いろんな経験ができるのに・・・・」という無念の思いであった。ところがある日、英会話の能力試験を受けた結果、もう一人の「トシ」の英語の理解力は私とたいして変わらないことを知って愕然とした。私は自分自身会話ができないと思うことにより、自らの行動を制限していたのである。実際にもう一人の「トシ」と同じ程度の能力を持っているかどうかが問題なのではなく、その能力を使えるかどうか、つまり「できる」と思えるかどうかが問題だったのだ。



 これまでは実際にできる、できないだけが評価の基本だった。実際に「できる」「できない」だけを評価するのは、英会話の試験のようなもので、必ずしも日常生活の様子を反映していない。また筋力検査や関節可動域の測定は、物理学の視点から能力を見ているにすぎない。それによって測定された能力が、うまくがたがた道で発揮できるかどうかはまた別問題である。人は機械ではない。だからこそ、生態学的な枠組みが必要になってくるのではないだろうか。



 実際「できる」と思えることは、その人の実生活での行動範囲を広げることになる。そういった判断が、訓練と共に変化するとすれば、それこそ私たちの知りたいことではないだろうか。ある人が、自らの身体の物理的な能力がある環境の中でどのように発揮されると考えるかを評価するのは、人と「環境」との相互作用である運動を見ていくことになるのである。



 もちろん、実際にやってもらうことも必要だ。患者さんができると思っても実際には失敗するかもしれない。そこで僕は、「人の判断」を中心にして、それに続く「実際の運動」を絡めて、運動評価の基本にしようと提案しているわけである。が、これを実行しようとするといくつかの問題が出てくる。この問題は次回から検討しよう。



 留学したての頃には、レストランの前でよく自問自答したものだ。「うまくやれるか?」「やっぱりやめとこう、大学のカフェテリアまで我慢しよう。あそこならうまくやれる。」それから8カ月くらいたった頃には、私一人での行動範囲はかなり広がった。初めてのレストランを前にして、「うまく振る舞えるか?」「まあ、なんとかなるだろう。」と思うから、その店に入り貴重な経験が積めたのである。



★☆★☆★☆★☆★☆★☆引用終わり★☆★☆★☆★☆★☆★☆



従来的な評価項目というのは物理的な視点に偏りすぎているのかもしれません。しかし実際の人の運動を見ると、行為の前提条件として、その行為の安全性や可能性について自覚的にせよ無自覚的にせよ何らかの判断をしていると思われます。



道を歩いていて前方に溝があったとしても、その幅が20cm程度なら簡単に跨ぎ越してしまうでしょうけど、幅150cmだったらどうでしょうか? 
安全に溝を跨ぎ越すことができない、あるいはできるかどうかわからないと思ったら、一旦歩くのをやめて、もっと幅が狭くなっているところを探したりするかもしれませんね。



生態学的な枠組みというのは、このような行為の前提条件さえも視野に含んでいます。運動に関わる専門家にとって、とても重要な視点を提供してくれているように思うのですが、いかがでしょうか?



【引用・参考文献】
西尾幸敏:実用理論事典-道具としての理論(その1).上田法治療研究会会報, No.18, p17-29, 1995.
西尾幸敏:実用理論事典-道具としての理論(その2).上田法治療研究会会報, No.19, p1-15, 1995.
西尾幸敏:実用理論事典-道具としての理論(その3).上田法治療研究会会報, Vol.8 No.1, p12-31, 1996.
西尾幸敏:実用理論事典-道具としての理論(その4).上田法治療研究会会報, Vol.8 No.2, p76-94, 1996.
西尾幸敏:実用理論事典-道具としての理論(その5).上田法治療研究会会報, Vol.8 No.2, p120-135, 1996.
西尾幸敏:実用理論事典-道具としての理論(その6 最終回).上田法治療研究会会報, Vol.8 No.3, p120-135, 1996.



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生態学的測定法(その1)

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さて、「CAMRの胎動-解題!実用理論辞典」シリーズの続きで、今回は生態学的測定法(その1)
まずは、論文を見てみましょう。



★☆★☆★☆★☆★☆★☆以下引用★☆★☆★☆★☆★☆★☆



 結局ここでの私の主張は、人の運動を要素に分けたりしないで、全体的に測定できないだろうかという点に集約される。つまり人の運動は変化するのだが、たとえば認知の問題で変化している間は、いくら筋力や関節可動域を測定しても、人の運動変化を説明することなどできない。また、仮に同時に筋力や可動域や認知、その他動機などを同時に評価できたところで、それからどのように総合的な評価を下すというのか?バラバラの評価から、1つの結果を予測できるのなら、誰も最初から苦労などしないのである。



 前回の話を思い出していただきたい。片麻痺の父親は、最初壁と自転車で作られたすき間を見たときに、「わしはここを通れん。自転車を倒すじゃろう。」と言った。ところが、横歩きを試した後では、「通れるかもしれん」と言いだし、実際に通ってしまった。いっそのこと、「どのくらいの狭さまでなら通れると思う?」などと親父に聞いてみたら良かったのかもしれない。なぜならば「できる」「できない」の判断は、その人の身体的能力の認知や精神的な状態、環境との相互作用の結果だからである。最初に自転車と壁の間が80センチあったとする。運動戦略や身体認知の変化が起こって、「通れる」幅が50センチになったとすれば、より狭い場所での移動が可能になることを意味する。



 それはさまざまな構成要素の相互作用の結果である。私たちはそれを追い続けることによって、その人の運動が全体としてどのように変化するかを理解できるのではないだろうか。ちょうどゲーテがプリズムをのぞいて色を理解したように、私たちは患者さんの判断を通して行動能力のレベルや運動変化を理解できないだろうか。



 ただこのように単純に物理的な数値で表すと、他人との比較が難しくなる。たとえば40センチは一般的にいって狭いのだろうか、広いのだろうか?これには第一に体の大きさが関係していることが考えられる。体が大きければ通れる最小幅は当然大きい。じゃあ、体の大きさを基準にして、通れる幅がどうなのかを考えればよい。そうすれば以下に紹介するように、標準値らしいものが出てくるのである。



 具体例を見てみよう。カエルは前方の植物の茎などのすき間が自身の頭部の幅の1.3倍以上ないと飛び出さない。スライドで壁にさまざまな高さのバーを写し、どの程度の高さまで手を使わずに登れるかを大学生に視覚的に判断させると、被験者の股下の長さ、0.88倍のところがぎりぎりだった。視覚だけを頼りに、手を使わずに座れる椅子の高さは脚長の0.9倍の高さの椅子であり、バーが「くぐれる」か「くぐれない」かをたずねると、脚長の1.07倍のところを境に答えは変わる。ここであげているのは体の大きさと視覚的情報との相互作用の結果、出てきている数値である。老人では全身の柔軟性の方が脚長よりも、「登れる最大の段の高さ」の基準として適切らしい。



 このように身体の大きさ、柔軟性、能力を基にして、環境との相互作用の結果を表すための尺度を使った測定法を生態学的測定法と呼ぶ。下肢長の1.1倍とか、安静歩行時の心拍数の2倍である。これらの数値は体格や身長に関わりなく、比率自体は普遍性を持っているらしい。物理的な測定値も、身体やその機能を基にして尺度を考え直すことによって新たな視点が見えてくるが、それはまた次回の話。



★☆★☆★☆★☆★☆★☆引用終わり★☆★☆★☆★☆★☆★☆



基本的に僕たちは、以前取り上げた「還元主義」に基づく考え方の影響を大きく受けています。それはそれでいいのですが、もしも有益な別の考え方があるのなら、それも身に付けておいた方が有利で便利でしょう、と述べてきました。



前回までの「アフォーダンス」や今回取り上げた「生態学的測定法」は、「還元主義」とは異なるパラダイムに基づいたものです。どちらの考え方もとても大事なのですが、僕たちが新たに学ぶ必要があるのは圧倒的にニュートンの視点ではなく、ゲーテの視点だとも言いました。「アフォーダンス」や「生態学的測定法」は、それを学ぶよいきっかけになるのではないかと思います。



【引用・参考文献】
西尾幸敏:実用理論事典-道具としての理論(その1).上田法治療研究会会報, No.18, p17-29, 1995.
西尾幸敏:実用理論事典-道具としての理論(その2).上田法治療研究会会報, No.19, p1-15, 1995.
西尾幸敏:実用理論事典-道具としての理論(その3).上田法治療研究会会報, Vol.8 No.1, p12-31, 1996.
西尾幸敏:実用理論事典-道具としての理論(その4).上田法治療研究会会報, Vol.8 No.2, p76-94, 1996.
西尾幸敏:実用理論事典-道具としての理論(その5).上田法治療研究会会報, Vol.8 No.2, p120-135, 1996.
西尾幸敏:実用理論事典-道具としての理論(その6 最終回).上田法治療研究会会報, Vol.8 No.3, p120-135, 1996.



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アフォーダンス(その6)

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さて、「CAMRの胎動-解題!実用理論辞典」シリーズの続きで、今回はアフォーダンス(その6)です。
まずは、論文を見てみましょう。



★☆★☆★☆★☆★☆★☆以下引用★☆★☆★☆★☆★☆★☆



生態学的測定法(その1)で述べた例を挙げておこう。『カエルは前方の植物の茎などのすき間が自身の頭部の幅の1.3倍以上ないと飛び出さない。スライドで壁にさまざまな高さのバーを写し、どの程度の高さまで手を使わずに登れるかを大学生に視覚的に判断させると、被験者の股下の長さ、0.88倍のところがぎりぎりだった。視覚だけを頼りに、手を使わずに座れる椅子の高さは脚長の0.9倍の高さの椅子であり、バーが「くぐれる」か「くぐれない」かをたずねると、脚長の1.07倍のところを境に答えは変わる。』



 これらの話は、アフォーダンスの持つ予測的性格を良く表している。つまり運動は実際に行われる前に、すでに予測的にどのような結末になるのかが行為者には大体わかっているのだ。身体から発している情報と環境からの情報、それらが課題を中心に相互作用を起こすと、その結果が予測的にわかってしまう。もっと端的に言えば「できる」とか「できない」といった「見込み」ができてしまう。



 「その1」で述べた壁と自転車の間を親父が通り抜けることを考えてみよう。最初、その隙間を見たときに、親父は「自転車を倒す」という見通し、すなわち成功裏に通り抜けられないという見通しをたてた。僕が「横向きに歩いたら」というアドバイスをした後で横歩きを少し練習させると、「通れるかもしれん」といった風に見通しは変化した。その見通しの変化は結局運動を生じさせ、その行為を成功裏に終わらせた。この場合、身体の発する情報が変化したのか、親父の思いこみが変化したのか知らないが、いずれにしても環境からの情報との相互作用を通じて、見込みが変化したと考えられる。見込みの変化は、実際に運動を変化させる。



 もう一つの例を挙げてみよう。自動車で大きな交差点を右折することを考えてみる。対向車線から来る直進車の隙間を見つけて右折を行うわけだが、この場合は心身の状態や対向車などに加えて、乗っている車からの情報もそれらと相互作用して一つの見通しが決まってくる。普段スポーツタイプの加速の良い車に乗っていて、たまに軽自動車に乗ったりすると、右折できる見通しの変化を実感できる。「いつも乗っている車なら、今の切れ目で右折できたのに・・・」と思ったりするのである。軽自動車の加速の悪さを実感して、無意識に見込みを変化させているのだ。ところがこの軽自動車にしばらく乗っていると、次第に見込みが変化してきて、ほんの少しの隙間でも「今だ!」といって右折できるようになってくる。最初は、危険性を考慮して少し甘めに見ていた見通しが、軽自動車に慣れるに従って、安全に右折できるぎりぎりの見通しへと変化していく。見込みの変化は運動や行動の変化につながってくる。



 結局アフォーダンスは、環境と心身の関わり方を決定するための「見込み」として考えられる。環境と心身の相互作用の結果、予測的な見込みを生み出す。さらにそれは運動を生じさせ、あらかじめ予見的に決定された結果へと運動を導く。もしアフォーダンスが我々にとって正確なものでなければ、課題を達成するために運動を起こせなかったり、甘い見通しをたてて危険な目にあったりするわけである。



 もう一つ、その見込みは運動の方法に関するものではない。運動の方法は、「自己組織化によって、その場で偶然に決定される」というのは、「運動学習(その3)」で述べた通り。実際の運動の方法(過程)はその場その場で偶然に決定されるので、予測不可能なのだが、その結果はアフォーダンスによってあらかじめわかっているのである*。すなわち、アフォーダンスによって運動は生じ、予測的に結果へと導かれる。ところが運動の方法や過程は、その場その場で自己組織化的に生じる



 たとえば「手に持った鉛筆で丸を描く」課題が与えられたとしよう。あなたにはできますか。そう、できるでしょう。「できる」という結果は分かっているのだ。しかし一回一回の書き方は変化する。腕の使い方や速度はその度に微妙に変化する。方法は一回毎にその場で偶然に組織化されているのだ。結果、書かれる丸は一回毎に変化する。しかしながら、丸を描くことができるという結末は、ほとんどの人にとってはあらかじめわかっているのである。そして日常生活の様々な動作の結末は、我々にはほぼ予測的に分かっているのである。



 それならば「ピーナツを一つ放り投げて、両手で耳を触り、『ヤッホー』と叫び、さらに口で受ける」という課題ならどうか。できないと見込みを立てる人も多いだろう。あるいはできると見込んだ人でも、失敗する確率は日常生活動作に比べるとはるかに高いだろう。新しい運動課題と出会うと、人は「できない」という見込みを立てたり、「できる」と判断したものの失敗する可能性が高くなるものなのである。つまり予測の確実性は低下する。



★☆★☆★☆★☆★☆★☆引用終わり★☆★☆★☆★☆★☆★☆



運動の結果というものは、行為者にとってあらかじめほぼわかっているわけですね。そして、その予測的な了解を参照して人の運動は組織化される。



それならば、その行為者の予測的な了解を知ることができたならば、セラピストにとってとても有益な情報になりそうですね。



【引用・参考文献】
西尾幸敏:実用理論事典-道具としての理論(その1).上田法治療研究会会報, No.18, p17-29, 1995.
西尾幸敏:実用理論事典-道具としての理論(その2).上田法治療研究会会報, No.19, p1-15, 1995.
西尾幸敏:実用理論事典-道具としての理論(その3).上田法治療研究会会報, Vol.8 No.1, p12-31, 1996.
西尾幸敏:実用理論事典-道具としての理論(その4).上田法治療研究会会報, Vol.8 No.2, p76-94, 1996.
西尾幸敏:実用理論事典-道具としての理論(その5).上田法治療研究会会報, Vol.8 No.2, p120-135, 1996.
西尾幸敏:実用理論事典-道具としての理論(その6 最終回).上田法治療研究会会報, Vol.8 No.3, p120-135, 1996.



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アフォーダンス(その5)

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さて、「CAMRの胎動-解題!実用理論辞典」シリーズの続きで、今回はアフォーダンス(その5)です。
まずは、論文を見てみましょう。



★☆★☆★☆★☆★☆★☆以下引用★☆★☆★☆★☆★☆★☆



私たちは「アフォーダンス理論」から何を学んできたのだろうか?まず「人の運動変化は環境に依存している」といった内容のことである。『依存する』とはどういうことか?それは「人は環境との相互作用の中で見いだす『意味』あるいは『価値』によって行動している」ということだ。つまり『意味』や『価値』によって運動を生じさせ、一瞬一瞬に変化させ、運動学習をし、長期的には運動を発達させる。逆に言えば『意味のない』あるいは『価値のない』ことは基本的に、人の運動に変化を起こさないし、学習もされない。



 訓練室でセラピストから教えられた運動パターンは、訓練室を出たとたんに消えてしまうケースは多い。なぜならその運動パターンは訓練室でしか意味を持たないからだ。それならば訓練室でやる訓練は無意味かと言えば、そうでもない。たとえば患者さんの痛みを弱めること、筋力を改善すること、関節可動域を改善すること、全身の持久力を改善することは患者さんの意味を見いだす能力を変化させるはずである。自分一人で立つのが精一杯だった人が、一人で10メートル歩けるようになったとする。これだけで環境に見いだされるアフォーダンスは随分変化するはずである。結果アフォーダンスの変化は新たに運動を変化させる。



 だがこの辺りは、従来の訓練法では元々視野に入っていない。従来の訓練法では、運動変化の原因をさまざまな構成要素に還元する。そしてその要素に働きかける。しかし、アフォーダンスに相当する視点が欠けていたのである。結果、運動変化の原因は、筋力だの関節可動域、あるいはセラピストのハンドリングなどに還元されてしまう。セラピストは運動変化が自律的に起きること、たとえば本当に生活に必要な運動変化が訓練室以外、つまり生活環境で起きていることを知らない。多くの患者さんは自分自身で、必要な運動変化を起こしていけるのだ。



 「運動を生じさせ、変化させ、学習させる意味」としてのアフォーダンスを運動変化の中心に据えることは、患者を自立した存在として扱うということだ。セラピストの仕事は、患者さんの意味を見いだす能力を変化させることだ。後は患者さん自身の環境で、患者さん自身にとって意味のある運動変化を、患者さん自身が生み出していく。我々セラピストは、運動変化のほんの「きっかけ」となっているに過ぎない。だが、我々セラピストだけが提供できる「きっかけ」がある。



 僕はもう少し、このアフォーダンスを意識した訓練体系を確立したい。たとえば運動変化は、セラピストのハンドリングや筋力増強訓練だけによって、あるいはそれを中心に起きているのではないのだということをはっきりさせたい。運動の変化は、セラピストによらずとも、もっと自律的に起きているのだ。つまりアフォーダンスを中心にして。「運動はアフォーダンスを変化させ、変化したアフォーダンスは運動を変化させる」といった辺りをうまく評価と訓練実施に結びつけたいと思っている。



 最後にもう一度まとめておく。「我々セラピストの仕事は、運動を直接変化させることではない。運動変化そのものは、アフォーダンスを中心に患者さんが行うのである。我々はそのアフォーダンス、「価値を見いだす能力」を変化させる。たとえば身体の物理的能力(筋力や関節可動域など)、動機付け、環境操作(装具や家屋改造)などの手段を用いることによってである。」



★☆★☆★☆★☆★☆★☆引用終わり★☆★☆★☆★☆★☆★☆



人の運動変化について考える際には、一時的な運動変化と持続的な運動変化と分けて考えた方がいいようですね。そういえば僕もまだ若くて経験も浅かった頃、講習会などに行くと、講師の先生がデモンストレーションをすると患者さんの姿勢がその場で目に見えて変わって、「おおぉ、すごい!」と思ったりしたものでした。



でも、結局これは一時的な変化にすぎないんですね。その後CAMRを学び経験を積んで、一時的な変化なんて、いとも簡単に生み出すことができることに気づきました。


もちろん、それはそれで使い道があるので悪い事ではありません。セラピスト自身が、その違いを理解していることが重要なのです。違いをわかったうえで意図的に一時的な変化を使ったり探索しているのなら良いのですが、この違いがわからずに、いつまでも一時的な変化だけを延々と繰り返しながら「粘り強く繰り返すことが大切です」などと耳障りが良くてもっともらしいことを言うしかないようではちょっと困りますね、ということです。


そして最後のほうで「アフォーダンスを意識した訓練体系を確立したい」と述べられていますが、これが少しずつ進化しながら後のCAMR構築につながっていきます。



【引用・参考文献】
西尾幸敏:実用理論事典-道具としての理論(その1).上田法治療研究会会報, No.18, p17-29, 1995.
西尾幸敏:実用理論事典-道具としての理論(その2).上田法治療研究会会報, No.19, p1-15, 1995.
西尾幸敏:実用理論事典-道具としての理論(その3).上田法治療研究会会報, Vol.8 No.1, p12-31, 1996.
西尾幸敏:実用理論事典-道具としての理論(その4).上田法治療研究会会報, Vol.8 No.2, p76-94, 1996.
西尾幸敏:実用理論事典-道具としての理論(その5).上田法治療研究会会報, Vol.8 No.2, p120-135, 1996.
西尾幸敏:実用理論事典-道具としての理論(その6 最終回).上田法治療研究会会報, Vol.8 No.3, p120-135, 1996.



最後まで目を通していただき、ありがとうございます!
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アフォーダンス(その4)

目安時間:約 8分

\(^▽^)/
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さて、「CAMRの胎動-解題!実用理論辞典」シリーズの続きです。
ここしばらく「還元主義」について取り上げてきました。還元主義は現在でも主流のアイデアではありますが、それだけではうまく説明できない現象もたくさんあります。それならば、別の視点も身に付けておいた方が良いのではないだろうか? というわけです。



それを踏まえた上で「アフォーダンス」に戻ります。
まずは、論文を見てみましょう。



★☆★☆★☆★☆★☆★☆以下引用★☆★☆★☆★☆★☆★☆



 私たちが環境から得ているアフォーダンスとは、結局知覚者にとっての価値あるいは意味のある情報のことである。環境はたくさんの情報を発している。と同時に、その情報を受けている私たち自身の体もたくさんの情報を発している。この二つの情報の相互作用から判断や行動が生まれる。私の親父が示した問題は、まさに自分自身の体が発している情報が急激に変化したため、知覚できる価値が変化してしまったということかもしれない。少し具体的に考えてみよう。



 佐々木がアフォーダンスの説明に使っている例を挙げてみよう。一本の橋がある。その橋は体重100キログラムの知覚者には「渡れない」と、体重50キログラムの知覚者には「渡れる」と知覚される。そこで50キログラムの人間に50キログラムの重りをつけることにする。重りをつけた途端に、それまで「渡れる」と知覚していた橋が「渡れない」と見え始めるわけではない。50キログラムの重りをつけた者が橋にある「渡れない」というアフォーダンスを知覚できるようになるまでは、かなりの時間をかけた環境との交渉の経験が必要だ。その後で、橋を片足で揺らしてみるかもしれない。これまで観察することのなかった橋の微妙なたわみに気がつくかもしれない。こうして「渡れない」というアフォーダンスを知覚できるようになる。



 親父の脳性運動障害を「重りをつけること」にたとえるのは少し安易だが、身体の発する情報が急激に変化したという意味では似たところもある。その変化によって、親父は適応的ではない行動や運動を繰り返す。しかし環境との相互作用を通じて再び、それまで見えていないアフォーダンスに気づき始める。たとえば退院当初は、孫たちが部屋中に散らかしたおもちゃを見て、「歩けん!」と怒っていた。床に所狭しとおかれたおもちゃやがらくたの類は、親父に「歩くことができん」とアフォードしていた。しかし現在では、あるおもちゃは「杖を使って向こうへ転がす」ことをアフォードするし、おもちゃ箱とクッションの間の隙間は、「割り込んで押しのけてしまう」ことをアフォードする。



 親父は環境を動き回ることによって、自分自身の潜在的な活動能力に気づきつつある。杖一本で障害物をどかし、テレビのスイッチを入れ、家具の足に持ち手をひっかけては、引っ張って立ち上がるなど。杖一本を使うにしても、様々な使い方、目的を持っていることに気づくようになる。障害物を避けるために横歩きの能力に気づき、孫がそばでうろうろしていることに対して自分の身が安全かどうかを判断するようになる。環境を知るための活動はまた、自分自身のことを知るための活動でもあったのだ。



 二年前、保健所の機能訓練事業で片麻痺のおじいちゃん、おばあちゃんにソーシャル・ダンスを教えたことがある。最初私には「どうせ正確にはできないんだから、できるようにやればいいや」という思いがあったし、彼らにしても「無理だ」という思いがあったらしい。ところがやっている間に不満が出始めたのである。それは「正しいダンスを教えてくれ」というものだ。実はその時点では、私自身も正しいルンバのステップを教えた方がいいと思い始めていた。できないと思っていたステップが、「実はできる」ということにお互い気づき始めていたのである。これも自分の身体の情報と回りの人たちからの情報との相互作用の結果、彼らのアフォーダンスが変化したからだと考えられる。かくして彼らは半年後に、発表会で華麗なボックスルンバを披露するに至った。誰一人自己流のステップで踊る人はいなかった。右片麻痺の人も左片麻痺の人もいろいろなパートナーと、同じステップで踊ることができるようになったのである。



 親父は発症後1年たつが、いまだに段の上り下りに「どっちの足から降りたらええんかいのう」とよく聞く。入院中に理学療法士から言われた「段を上がるときは良い方から、降りるときは悪い方から」ということに今でもこだわっているようだ。段を前にするとそのことを思い出し、そばに誰かいれば必ず聞くのである。「ええ方から上がりゃあよかったんかいのう。悪い方かいのう」



 もし自分で運動戦略を身につけたのなら、こんなことは起きないのだろう。最初に自分でいろいろ試す前に運動を他人に教えられたという経験が今でも残っているのではないだろうか。自分で試す前にすでに正解が存在しているとでも思っているのである。僕は必ず「好きな方から上がったら」といっている。そうすると使う脚は、状況に左右されることがわかる。本人はできると思ってやり、特に不安も感じていない。回りがとやかく言うよりも、自然に本人が学んでいく部分は多いのではないだろうか。


 「正解」として特定の数少ないパターンを教えることは、患者の選択肢を狭めることになるのかもしれない。また環境を探り自身のことを知る過程も、セラピストが教えたりすることではないかもしれない。患者さんは新しい身体状況とそれが環境との間に作り出す新しい関係を自ら学んでいけるのだから。だから私たちの仕事は教えることではなく、患者さんのアフォーダンスがより適応的に変化するよう手伝うことなのだろう。



★☆★☆★☆★☆★☆★☆引用終わり★☆★☆★☆★☆★☆★☆



最後の部分はとても示唆に富んでいます。
リハビリの臨床現場では、「正常運動パターン」を学習する、といったことがよく言われます。しかし、アフォーダンスを通して人の運動を眺めてみると、それがいかに的外れなことなのかがよくわかりますね。
反省しきりです・・・。



【引用・参考文献】
西尾幸敏:実用理論事典-道具としての理論(その1).上田法治療研究会会報, No.18, p17-29, 1995.
西尾幸敏:実用理論事典-道具としての理論(その2).上田法治療研究会会報, No.19, p1-15, 1995.
西尾幸敏:実用理論事典-道具としての理論(その3).上田法治療研究会会報, Vol.8 No.1, p12-31, 1996.
西尾幸敏:実用理論事典-道具としての理論(その4).上田法治療研究会会報, Vol.8 No.2, p76-94, 1996.
西尾幸敏:実用理論事典-道具としての理論(その5).上田法治療研究会会報, Vol.8 No.2, p120-135, 1996.
西尾幸敏:実用理論事典-道具としての理論(その6 最終回).上田法治療研究会会報, Vol.8 No.3, p120-135, 1996.



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