生態学的測定法(その2)

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さて、「CAMRの胎動-解題!実用理論辞典」シリーズの続きで、今回は生態学的測定法(その2)です。
まずは、論文を見てみましょう。



★☆★☆★☆★☆★☆★☆以下引用★☆★☆★☆★☆★☆★☆



ここではこのアイデアを違った視点から検討してみたい。私の勉強会の学生の一人はこのアイデアに即座に反論した。「どのくらいの幅なら通れるか、通れないかを判断してもらってもしかたないんじゃありませんか。実際にできるかどうかが問題だと思います。いくらできると判断しても実際にはできないこともあるんですから。実際に通ってもらって最小の幅をその人の能力と考えるべきではありませんか。」つまりその人がどう判断するかよりも、その人が実際に持っている物理的な能力の方が重要なのだ、とその学生は言いたかったのである。案外、生態学的な視点と物理学的な視点との境界線はそのあたりにあるのだろう。



 実際には、「できる」と考えることと「できない」と考えることは大きな結果の違いを生む。少し話をそらします。私がアメリカに留学しているときに、一人の若い日本人と友人になった。二人とも同じ英会話学校に通い、ともに「トシ」というニックネームを持っていた。彼は何事にも積極的で、よく私を誘っていろいろなところに行き、いろんなものを食べ、いろんな人と友達になった。一方私と言えば、彼のする事をそばで見ていたものだ。元来引っ込み思案でもあるが、心に常にあったのは「私は英語が理解できないし、しゃべれないからな」という思いであった。「もう少し理解できれば、もう少し話せれば、いろんな経験ができるのに・・・・」という無念の思いであった。ところがある日、英会話の能力試験を受けた結果、もう一人の「トシ」の英語の理解力は私とたいして変わらないことを知って愕然とした。私は自分自身会話ができないと思うことにより、自らの行動を制限していたのである。実際にもう一人の「トシ」と同じ程度の能力を持っているかどうかが問題なのではなく、その能力を使えるかどうか、つまり「できる」と思えるかどうかが問題だったのだ。



 これまでは実際にできる、できないだけが評価の基本だった。実際に「できる」「できない」だけを評価するのは、英会話の試験のようなもので、必ずしも日常生活の様子を反映していない。また筋力検査や関節可動域の測定は、物理学の視点から能力を見ているにすぎない。それによって測定された能力が、うまくがたがた道で発揮できるかどうかはまた別問題である。人は機械ではない。だからこそ、生態学的な枠組みが必要になってくるのではないだろうか。



 実際「できる」と思えることは、その人の実生活での行動範囲を広げることになる。そういった判断が、訓練と共に変化するとすれば、それこそ私たちの知りたいことではないだろうか。ある人が、自らの身体の物理的な能力がある環境の中でどのように発揮されると考えるかを評価するのは、人と「環境」との相互作用である運動を見ていくことになるのである。



 もちろん、実際にやってもらうことも必要だ。患者さんができると思っても実際には失敗するかもしれない。そこで僕は、「人の判断」を中心にして、それに続く「実際の運動」を絡めて、運動評価の基本にしようと提案しているわけである。が、これを実行しようとするといくつかの問題が出てくる。この問題は次回から検討しよう。



 留学したての頃には、レストランの前でよく自問自答したものだ。「うまくやれるか?」「やっぱりやめとこう、大学のカフェテリアまで我慢しよう。あそこならうまくやれる。」それから8カ月くらいたった頃には、私一人での行動範囲はかなり広がった。初めてのレストランを前にして、「うまく振る舞えるか?」「まあ、なんとかなるだろう。」と思うから、その店に入り貴重な経験が積めたのである。



★☆★☆★☆★☆★☆★☆引用終わり★☆★☆★☆★☆★☆★☆



従来的な評価項目というのは物理的な視点に偏りすぎているのかもしれません。しかし実際の人の運動を見ると、行為の前提条件として、その行為の安全性や可能性について自覚的にせよ無自覚的にせよ何らかの判断をしていると思われます。



道を歩いていて前方に溝があったとしても、その幅が20cm程度なら簡単に跨ぎ越してしまうでしょうけど、幅150cmだったらどうでしょうか? 
安全に溝を跨ぎ越すことができない、あるいはできるかどうかわからないと思ったら、一旦歩くのをやめて、もっと幅が狭くなっているところを探したりするかもしれませんね。



生態学的な枠組みというのは、このような行為の前提条件さえも視野に含んでいます。運動に関わる専門家にとって、とても重要な視点を提供してくれているように思うのですが、いかがでしょうか?



【引用・参考文献】
西尾幸敏:実用理論事典-道具としての理論(その1).上田法治療研究会会報, No.18, p17-29, 1995.
西尾幸敏:実用理論事典-道具としての理論(その2).上田法治療研究会会報, No.19, p1-15, 1995.
西尾幸敏:実用理論事典-道具としての理論(その3).上田法治療研究会会報, Vol.8 No.1, p12-31, 1996.
西尾幸敏:実用理論事典-道具としての理論(その4).上田法治療研究会会報, Vol.8 No.2, p76-94, 1996.
西尾幸敏:実用理論事典-道具としての理論(その5).上田法治療研究会会報, Vol.8 No.2, p120-135, 1996.
西尾幸敏:実用理論事典-道具としての理論(その6 最終回).上田法治療研究会会報, Vol.8 No.3, p120-135, 1996.



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生態学的測定法(その1)

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さて、「CAMRの胎動-解題!実用理論辞典」シリーズの続きで、今回は生態学的測定法(その1)
まずは、論文を見てみましょう。



★☆★☆★☆★☆★☆★☆以下引用★☆★☆★☆★☆★☆★☆



 結局ここでの私の主張は、人の運動を要素に分けたりしないで、全体的に測定できないだろうかという点に集約される。つまり人の運動は変化するのだが、たとえば認知の問題で変化している間は、いくら筋力や関節可動域を測定しても、人の運動変化を説明することなどできない。また、仮に同時に筋力や可動域や認知、その他動機などを同時に評価できたところで、それからどのように総合的な評価を下すというのか?バラバラの評価から、1つの結果を予測できるのなら、誰も最初から苦労などしないのである。



 前回の話を思い出していただきたい。片麻痺の父親は、最初壁と自転車で作られたすき間を見たときに、「わしはここを通れん。自転車を倒すじゃろう。」と言った。ところが、横歩きを試した後では、「通れるかもしれん」と言いだし、実際に通ってしまった。いっそのこと、「どのくらいの狭さまでなら通れると思う?」などと親父に聞いてみたら良かったのかもしれない。なぜならば「できる」「できない」の判断は、その人の身体的能力の認知や精神的な状態、環境との相互作用の結果だからである。最初に自転車と壁の間が80センチあったとする。運動戦略や身体認知の変化が起こって、「通れる」幅が50センチになったとすれば、より狭い場所での移動が可能になることを意味する。



 それはさまざまな構成要素の相互作用の結果である。私たちはそれを追い続けることによって、その人の運動が全体としてどのように変化するかを理解できるのではないだろうか。ちょうどゲーテがプリズムをのぞいて色を理解したように、私たちは患者さんの判断を通して行動能力のレベルや運動変化を理解できないだろうか。



 ただこのように単純に物理的な数値で表すと、他人との比較が難しくなる。たとえば40センチは一般的にいって狭いのだろうか、広いのだろうか?これには第一に体の大きさが関係していることが考えられる。体が大きければ通れる最小幅は当然大きい。じゃあ、体の大きさを基準にして、通れる幅がどうなのかを考えればよい。そうすれば以下に紹介するように、標準値らしいものが出てくるのである。



 具体例を見てみよう。カエルは前方の植物の茎などのすき間が自身の頭部の幅の1.3倍以上ないと飛び出さない。スライドで壁にさまざまな高さのバーを写し、どの程度の高さまで手を使わずに登れるかを大学生に視覚的に判断させると、被験者の股下の長さ、0.88倍のところがぎりぎりだった。視覚だけを頼りに、手を使わずに座れる椅子の高さは脚長の0.9倍の高さの椅子であり、バーが「くぐれる」か「くぐれない」かをたずねると、脚長の1.07倍のところを境に答えは変わる。ここであげているのは体の大きさと視覚的情報との相互作用の結果、出てきている数値である。老人では全身の柔軟性の方が脚長よりも、「登れる最大の段の高さ」の基準として適切らしい。



 このように身体の大きさ、柔軟性、能力を基にして、環境との相互作用の結果を表すための尺度を使った測定法を生態学的測定法と呼ぶ。下肢長の1.1倍とか、安静歩行時の心拍数の2倍である。これらの数値は体格や身長に関わりなく、比率自体は普遍性を持っているらしい。物理的な測定値も、身体やその機能を基にして尺度を考え直すことによって新たな視点が見えてくるが、それはまた次回の話。



★☆★☆★☆★☆★☆★☆引用終わり★☆★☆★☆★☆★☆★☆



基本的に僕たちは、以前取り上げた「還元主義」に基づく考え方の影響を大きく受けています。それはそれでいいのですが、もしも有益な別の考え方があるのなら、それも身に付けておいた方が有利で便利でしょう、と述べてきました。



前回までの「アフォーダンス」や今回取り上げた「生態学的測定法」は、「還元主義」とは異なるパラダイムに基づいたものです。どちらの考え方もとても大事なのですが、僕たちが新たに学ぶ必要があるのは圧倒的にニュートンの視点ではなく、ゲーテの視点だとも言いました。「アフォーダンス」や「生態学的測定法」は、それを学ぶよいきっかけになるのではないかと思います。



【引用・参考文献】
西尾幸敏:実用理論事典-道具としての理論(その1).上田法治療研究会会報, No.18, p17-29, 1995.
西尾幸敏:実用理論事典-道具としての理論(その2).上田法治療研究会会報, No.19, p1-15, 1995.
西尾幸敏:実用理論事典-道具としての理論(その3).上田法治療研究会会報, Vol.8 No.1, p12-31, 1996.
西尾幸敏:実用理論事典-道具としての理論(その4).上田法治療研究会会報, Vol.8 No.2, p76-94, 1996.
西尾幸敏:実用理論事典-道具としての理論(その5).上田法治療研究会会報, Vol.8 No.2, p120-135, 1996.
西尾幸敏:実用理論事典-道具としての理論(その6 最終回).上田法治療研究会会報, Vol.8 No.3, p120-135, 1996.



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アフォーダンス(その6)

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★☆★☆★☆★☆★☆★☆以下引用★☆★☆★☆★☆★☆★☆



生態学的測定法(その1)で述べた例を挙げておこう。『カエルは前方の植物の茎などのすき間が自身の頭部の幅の1.3倍以上ないと飛び出さない。スライドで壁にさまざまな高さのバーを写し、どの程度の高さまで手を使わずに登れるかを大学生に視覚的に判断させると、被験者の股下の長さ、0.88倍のところがぎりぎりだった。視覚だけを頼りに、手を使わずに座れる椅子の高さは脚長の0.9倍の高さの椅子であり、バーが「くぐれる」か「くぐれない」かをたずねると、脚長の1.07倍のところを境に答えは変わる。』



 これらの話は、アフォーダンスの持つ予測的性格を良く表している。つまり運動は実際に行われる前に、すでに予測的にどのような結末になるのかが行為者には大体わかっているのだ。身体から発している情報と環境からの情報、それらが課題を中心に相互作用を起こすと、その結果が予測的にわかってしまう。もっと端的に言えば「できる」とか「できない」といった「見込み」ができてしまう。



 「その1」で述べた壁と自転車の間を親父が通り抜けることを考えてみよう。最初、その隙間を見たときに、親父は「自転車を倒す」という見通し、すなわち成功裏に通り抜けられないという見通しをたてた。僕が「横向きに歩いたら」というアドバイスをした後で横歩きを少し練習させると、「通れるかもしれん」といった風に見通しは変化した。その見通しの変化は結局運動を生じさせ、その行為を成功裏に終わらせた。この場合、身体の発する情報が変化したのか、親父の思いこみが変化したのか知らないが、いずれにしても環境からの情報との相互作用を通じて、見込みが変化したと考えられる。見込みの変化は、実際に運動を変化させる。



 もう一つの例を挙げてみよう。自動車で大きな交差点を右折することを考えてみる。対向車線から来る直進車の隙間を見つけて右折を行うわけだが、この場合は心身の状態や対向車などに加えて、乗っている車からの情報もそれらと相互作用して一つの見通しが決まってくる。普段スポーツタイプの加速の良い車に乗っていて、たまに軽自動車に乗ったりすると、右折できる見通しの変化を実感できる。「いつも乗っている車なら、今の切れ目で右折できたのに・・・」と思ったりするのである。軽自動車の加速の悪さを実感して、無意識に見込みを変化させているのだ。ところがこの軽自動車にしばらく乗っていると、次第に見込みが変化してきて、ほんの少しの隙間でも「今だ!」といって右折できるようになってくる。最初は、危険性を考慮して少し甘めに見ていた見通しが、軽自動車に慣れるに従って、安全に右折できるぎりぎりの見通しへと変化していく。見込みの変化は運動や行動の変化につながってくる。



 結局アフォーダンスは、環境と心身の関わり方を決定するための「見込み」として考えられる。環境と心身の相互作用の結果、予測的な見込みを生み出す。さらにそれは運動を生じさせ、あらかじめ予見的に決定された結果へと運動を導く。もしアフォーダンスが我々にとって正確なものでなければ、課題を達成するために運動を起こせなかったり、甘い見通しをたてて危険な目にあったりするわけである。



 もう一つ、その見込みは運動の方法に関するものではない。運動の方法は、「自己組織化によって、その場で偶然に決定される」というのは、「運動学習(その3)」で述べた通り。実際の運動の方法(過程)はその場その場で偶然に決定されるので、予測不可能なのだが、その結果はアフォーダンスによってあらかじめわかっているのである*。すなわち、アフォーダンスによって運動は生じ、予測的に結果へと導かれる。ところが運動の方法や過程は、その場その場で自己組織化的に生じる



 たとえば「手に持った鉛筆で丸を描く」課題が与えられたとしよう。あなたにはできますか。そう、できるでしょう。「できる」という結果は分かっているのだ。しかし一回一回の書き方は変化する。腕の使い方や速度はその度に微妙に変化する。方法は一回毎にその場で偶然に組織化されているのだ。結果、書かれる丸は一回毎に変化する。しかしながら、丸を描くことができるという結末は、ほとんどの人にとってはあらかじめわかっているのである。そして日常生活の様々な動作の結末は、我々にはほぼ予測的に分かっているのである。



 それならば「ピーナツを一つ放り投げて、両手で耳を触り、『ヤッホー』と叫び、さらに口で受ける」という課題ならどうか。できないと見込みを立てる人も多いだろう。あるいはできると見込んだ人でも、失敗する確率は日常生活動作に比べるとはるかに高いだろう。新しい運動課題と出会うと、人は「できない」という見込みを立てたり、「できる」と判断したものの失敗する可能性が高くなるものなのである。つまり予測の確実性は低下する。



★☆★☆★☆★☆★☆★☆引用終わり★☆★☆★☆★☆★☆★☆



運動の結果というものは、行為者にとってあらかじめほぼわかっているわけですね。そして、その予測的な了解を参照して人の運動は組織化される。



それならば、その行為者の予測的な了解を知ることができたならば、セラピストにとってとても有益な情報になりそうですね。



【引用・参考文献】
西尾幸敏:実用理論事典-道具としての理論(その1).上田法治療研究会会報, No.18, p17-29, 1995.
西尾幸敏:実用理論事典-道具としての理論(その2).上田法治療研究会会報, No.19, p1-15, 1995.
西尾幸敏:実用理論事典-道具としての理論(その3).上田法治療研究会会報, Vol.8 No.1, p12-31, 1996.
西尾幸敏:実用理論事典-道具としての理論(その4).上田法治療研究会会報, Vol.8 No.2, p76-94, 1996.
西尾幸敏:実用理論事典-道具としての理論(その5).上田法治療研究会会報, Vol.8 No.2, p120-135, 1996.
西尾幸敏:実用理論事典-道具としての理論(その6 最終回).上田法治療研究会会報, Vol.8 No.3, p120-135, 1996.



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