アフォーダンス(その4)

目安時間:約 8分

\(^▽^)/
アロハ~!
しあわせ探検家の晋作です!
ご機嫌いかがですか?



さて、「CAMRの胎動-解題!実用理論辞典」シリーズの続きです。
ここしばらく「還元主義」について取り上げてきました。還元主義は現在でも主流のアイデアではありますが、それだけではうまく説明できない現象もたくさんあります。それならば、別の視点も身に付けておいた方が良いのではないだろうか? というわけです。



それを踏まえた上で「アフォーダンス」に戻ります。
まずは、論文を見てみましょう。



★☆★☆★☆★☆★☆★☆以下引用★☆★☆★☆★☆★☆★☆



 私たちが環境から得ているアフォーダンスとは、結局知覚者にとっての価値あるいは意味のある情報のことである。環境はたくさんの情報を発している。と同時に、その情報を受けている私たち自身の体もたくさんの情報を発している。この二つの情報の相互作用から判断や行動が生まれる。私の親父が示した問題は、まさに自分自身の体が発している情報が急激に変化したため、知覚できる価値が変化してしまったということかもしれない。少し具体的に考えてみよう。



 佐々木がアフォーダンスの説明に使っている例を挙げてみよう。一本の橋がある。その橋は体重100キログラムの知覚者には「渡れない」と、体重50キログラムの知覚者には「渡れる」と知覚される。そこで50キログラムの人間に50キログラムの重りをつけることにする。重りをつけた途端に、それまで「渡れる」と知覚していた橋が「渡れない」と見え始めるわけではない。50キログラムの重りをつけた者が橋にある「渡れない」というアフォーダンスを知覚できるようになるまでは、かなりの時間をかけた環境との交渉の経験が必要だ。その後で、橋を片足で揺らしてみるかもしれない。これまで観察することのなかった橋の微妙なたわみに気がつくかもしれない。こうして「渡れない」というアフォーダンスを知覚できるようになる。



 親父の脳性運動障害を「重りをつけること」にたとえるのは少し安易だが、身体の発する情報が急激に変化したという意味では似たところもある。その変化によって、親父は適応的ではない行動や運動を繰り返す。しかし環境との相互作用を通じて再び、それまで見えていないアフォーダンスに気づき始める。たとえば退院当初は、孫たちが部屋中に散らかしたおもちゃを見て、「歩けん!」と怒っていた。床に所狭しとおかれたおもちゃやがらくたの類は、親父に「歩くことができん」とアフォードしていた。しかし現在では、あるおもちゃは「杖を使って向こうへ転がす」ことをアフォードするし、おもちゃ箱とクッションの間の隙間は、「割り込んで押しのけてしまう」ことをアフォードする。



 親父は環境を動き回ることによって、自分自身の潜在的な活動能力に気づきつつある。杖一本で障害物をどかし、テレビのスイッチを入れ、家具の足に持ち手をひっかけては、引っ張って立ち上がるなど。杖一本を使うにしても、様々な使い方、目的を持っていることに気づくようになる。障害物を避けるために横歩きの能力に気づき、孫がそばでうろうろしていることに対して自分の身が安全かどうかを判断するようになる。環境を知るための活動はまた、自分自身のことを知るための活動でもあったのだ。



 二年前、保健所の機能訓練事業で片麻痺のおじいちゃん、おばあちゃんにソーシャル・ダンスを教えたことがある。最初私には「どうせ正確にはできないんだから、できるようにやればいいや」という思いがあったし、彼らにしても「無理だ」という思いがあったらしい。ところがやっている間に不満が出始めたのである。それは「正しいダンスを教えてくれ」というものだ。実はその時点では、私自身も正しいルンバのステップを教えた方がいいと思い始めていた。できないと思っていたステップが、「実はできる」ということにお互い気づき始めていたのである。これも自分の身体の情報と回りの人たちからの情報との相互作用の結果、彼らのアフォーダンスが変化したからだと考えられる。かくして彼らは半年後に、発表会で華麗なボックスルンバを披露するに至った。誰一人自己流のステップで踊る人はいなかった。右片麻痺の人も左片麻痺の人もいろいろなパートナーと、同じステップで踊ることができるようになったのである。



 親父は発症後1年たつが、いまだに段の上り下りに「どっちの足から降りたらええんかいのう」とよく聞く。入院中に理学療法士から言われた「段を上がるときは良い方から、降りるときは悪い方から」ということに今でもこだわっているようだ。段を前にするとそのことを思い出し、そばに誰かいれば必ず聞くのである。「ええ方から上がりゃあよかったんかいのう。悪い方かいのう」



 もし自分で運動戦略を身につけたのなら、こんなことは起きないのだろう。最初に自分でいろいろ試す前に運動を他人に教えられたという経験が今でも残っているのではないだろうか。自分で試す前にすでに正解が存在しているとでも思っているのである。僕は必ず「好きな方から上がったら」といっている。そうすると使う脚は、状況に左右されることがわかる。本人はできると思ってやり、特に不安も感じていない。回りがとやかく言うよりも、自然に本人が学んでいく部分は多いのではないだろうか。


 「正解」として特定の数少ないパターンを教えることは、患者の選択肢を狭めることになるのかもしれない。また環境を探り自身のことを知る過程も、セラピストが教えたりすることではないかもしれない。患者さんは新しい身体状況とそれが環境との間に作り出す新しい関係を自ら学んでいけるのだから。だから私たちの仕事は教えることではなく、患者さんのアフォーダンスがより適応的に変化するよう手伝うことなのだろう。



★☆★☆★☆★☆★☆★☆引用終わり★☆★☆★☆★☆★☆★☆



最後の部分はとても示唆に富んでいます。
リハビリの臨床現場では、「正常運動パターン」を学習する、といったことがよく言われます。しかし、アフォーダンスを通して人の運動を眺めてみると、それがいかに的外れなことなのかがよくわかりますね。
反省しきりです・・・。



【引用・参考文献】
西尾幸敏:実用理論事典-道具としての理論(その1).上田法治療研究会会報, No.18, p17-29, 1995.
西尾幸敏:実用理論事典-道具としての理論(その2).上田法治療研究会会報, No.19, p1-15, 1995.
西尾幸敏:実用理論事典-道具としての理論(その3).上田法治療研究会会報, Vol.8 No.1, p12-31, 1996.
西尾幸敏:実用理論事典-道具としての理論(その4).上田法治療研究会会報, Vol.8 No.2, p76-94, 1996.
西尾幸敏:実用理論事典-道具としての理論(その5).上田法治療研究会会報, Vol.8 No.2, p120-135, 1996.
西尾幸敏:実用理論事典-道具としての理論(その6 最終回).上田法治療研究会会報, Vol.8 No.3, p120-135, 1996.



最後まで目を通していただき、ありがとうございます!
あなたにすべての良きことが雪崩のごとく起きます!



マハロ~!



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