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アフォーダンス(その6)

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さて、「CAMRの胎動-解題!実用理論辞典」シリーズの続きで、今回はアフォーダンス(その6)です。
まずは、論文を見てみましょう。



★☆★☆★☆★☆★☆★☆以下引用★☆★☆★☆★☆★☆★☆



生態学的測定法(その1)で述べた例を挙げておこう。『カエルは前方の植物の茎などのすき間が自身の頭部の幅の1.3倍以上ないと飛び出さない。スライドで壁にさまざまな高さのバーを写し、どの程度の高さまで手を使わずに登れるかを大学生に視覚的に判断させると、被験者の股下の長さ、0.88倍のところがぎりぎりだった。視覚だけを頼りに、手を使わずに座れる椅子の高さは脚長の0.9倍の高さの椅子であり、バーが「くぐれる」か「くぐれない」かをたずねると、脚長の1.07倍のところを境に答えは変わる。』



 これらの話は、アフォーダンスの持つ予測的性格を良く表している。つまり運動は実際に行われる前に、すでに予測的にどのような結末になるのかが行為者には大体わかっているのだ。身体から発している情報と環境からの情報、それらが課題を中心に相互作用を起こすと、その結果が予測的にわかってしまう。もっと端的に言えば「できる」とか「できない」といった「見込み」ができてしまう。



 「その1」で述べた壁と自転車の間を親父が通り抜けることを考えてみよう。最初、その隙間を見たときに、親父は「自転車を倒す」という見通し、すなわち成功裏に通り抜けられないという見通しをたてた。僕が「横向きに歩いたら」というアドバイスをした後で横歩きを少し練習させると、「通れるかもしれん」といった風に見通しは変化した。その見通しの変化は結局運動を生じさせ、その行為を成功裏に終わらせた。この場合、身体の発する情報が変化したのか、親父の思いこみが変化したのか知らないが、いずれにしても環境からの情報との相互作用を通じて、見込みが変化したと考えられる。見込みの変化は、実際に運動を変化させる。



 もう一つの例を挙げてみよう。自動車で大きな交差点を右折することを考えてみる。対向車線から来る直進車の隙間を見つけて右折を行うわけだが、この場合は心身の状態や対向車などに加えて、乗っている車からの情報もそれらと相互作用して一つの見通しが決まってくる。普段スポーツタイプの加速の良い車に乗っていて、たまに軽自動車に乗ったりすると、右折できる見通しの変化を実感できる。「いつも乗っている車なら、今の切れ目で右折できたのに・・・」と思ったりするのである。軽自動車の加速の悪さを実感して、無意識に見込みを変化させているのだ。ところがこの軽自動車にしばらく乗っていると、次第に見込みが変化してきて、ほんの少しの隙間でも「今だ!」といって右折できるようになってくる。最初は、危険性を考慮して少し甘めに見ていた見通しが、軽自動車に慣れるに従って、安全に右折できるぎりぎりの見通しへと変化していく。見込みの変化は運動や行動の変化につながってくる。



 結局アフォーダンスは、環境と心身の関わり方を決定するための「見込み」として考えられる。環境と心身の相互作用の結果、予測的な見込みを生み出す。さらにそれは運動を生じさせ、あらかじめ予見的に決定された結果へと運動を導く。もしアフォーダンスが我々にとって正確なものでなければ、課題を達成するために運動を起こせなかったり、甘い見通しをたてて危険な目にあったりするわけである。



 もう一つ、その見込みは運動の方法に関するものではない。運動の方法は、「自己組織化によって、その場で偶然に決定される」というのは、「運動学習(その3)」で述べた通り。実際の運動の方法(過程)はその場その場で偶然に決定されるので、予測不可能なのだが、その結果はアフォーダンスによってあらかじめわかっているのである*。すなわち、アフォーダンスによって運動は生じ、予測的に結果へと導かれる。ところが運動の方法や過程は、その場その場で自己組織化的に生じる



 たとえば「手に持った鉛筆で丸を描く」課題が与えられたとしよう。あなたにはできますか。そう、できるでしょう。「できる」という結果は分かっているのだ。しかし一回一回の書き方は変化する。腕の使い方や速度はその度に微妙に変化する。方法は一回毎にその場で偶然に組織化されているのだ。結果、書かれる丸は一回毎に変化する。しかしながら、丸を描くことができるという結末は、ほとんどの人にとってはあらかじめわかっているのである。そして日常生活の様々な動作の結末は、我々にはほぼ予測的に分かっているのである。



 それならば「ピーナツを一つ放り投げて、両手で耳を触り、『ヤッホー』と叫び、さらに口で受ける」という課題ならどうか。できないと見込みを立てる人も多いだろう。あるいはできると見込んだ人でも、失敗する確率は日常生活動作に比べるとはるかに高いだろう。新しい運動課題と出会うと、人は「できない」という見込みを立てたり、「できる」と判断したものの失敗する可能性が高くなるものなのである。つまり予測の確実性は低下する。



★☆★☆★☆★☆★☆★☆引用終わり★☆★☆★☆★☆★☆★☆



運動の結果というものは、行為者にとってあらかじめほぼわかっているわけですね。そして、その予測的な了解を参照して人の運動は組織化される。



それならば、その行為者の予測的な了解を知ることができたならば、セラピストにとってとても有益な情報になりそうですね。



【引用・参考文献】
西尾幸敏:実用理論事典-道具としての理論(その1).上田法治療研究会会報, No.18, p17-29, 1995.
西尾幸敏:実用理論事典-道具としての理論(その2).上田法治療研究会会報, No.19, p1-15, 1995.
西尾幸敏:実用理論事典-道具としての理論(その3).上田法治療研究会会報, Vol.8 No.1, p12-31, 1996.
西尾幸敏:実用理論事典-道具としての理論(その4).上田法治療研究会会報, Vol.8 No.2, p76-94, 1996.
西尾幸敏:実用理論事典-道具としての理論(その5).上田法治療研究会会報, Vol.8 No.2, p120-135, 1996.
西尾幸敏:実用理論事典-道具としての理論(その6 最終回).上田法治療研究会会報, Vol.8 No.3, p120-135, 1996.



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アフォーダンス(その5)

目安時間:約 7分

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さて、「CAMRの胎動-解題!実用理論辞典」シリーズの続きで、今回はアフォーダンス(その5)です。
まずは、論文を見てみましょう。



★☆★☆★☆★☆★☆★☆以下引用★☆★☆★☆★☆★☆★☆



私たちは「アフォーダンス理論」から何を学んできたのだろうか?まず「人の運動変化は環境に依存している」といった内容のことである。『依存する』とはどういうことか?それは「人は環境との相互作用の中で見いだす『意味』あるいは『価値』によって行動している」ということだ。つまり『意味』や『価値』によって運動を生じさせ、一瞬一瞬に変化させ、運動学習をし、長期的には運動を発達させる。逆に言えば『意味のない』あるいは『価値のない』ことは基本的に、人の運動に変化を起こさないし、学習もされない。



 訓練室でセラピストから教えられた運動パターンは、訓練室を出たとたんに消えてしまうケースは多い。なぜならその運動パターンは訓練室でしか意味を持たないからだ。それならば訓練室でやる訓練は無意味かと言えば、そうでもない。たとえば患者さんの痛みを弱めること、筋力を改善すること、関節可動域を改善すること、全身の持久力を改善することは患者さんの意味を見いだす能力を変化させるはずである。自分一人で立つのが精一杯だった人が、一人で10メートル歩けるようになったとする。これだけで環境に見いだされるアフォーダンスは随分変化するはずである。結果アフォーダンスの変化は新たに運動を変化させる。



 だがこの辺りは、従来の訓練法では元々視野に入っていない。従来の訓練法では、運動変化の原因をさまざまな構成要素に還元する。そしてその要素に働きかける。しかし、アフォーダンスに相当する視点が欠けていたのである。結果、運動変化の原因は、筋力だの関節可動域、あるいはセラピストのハンドリングなどに還元されてしまう。セラピストは運動変化が自律的に起きること、たとえば本当に生活に必要な運動変化が訓練室以外、つまり生活環境で起きていることを知らない。多くの患者さんは自分自身で、必要な運動変化を起こしていけるのだ。



 「運動を生じさせ、変化させ、学習させる意味」としてのアフォーダンスを運動変化の中心に据えることは、患者を自立した存在として扱うということだ。セラピストの仕事は、患者さんの意味を見いだす能力を変化させることだ。後は患者さん自身の環境で、患者さん自身にとって意味のある運動変化を、患者さん自身が生み出していく。我々セラピストは、運動変化のほんの「きっかけ」となっているに過ぎない。だが、我々セラピストだけが提供できる「きっかけ」がある。



 僕はもう少し、このアフォーダンスを意識した訓練体系を確立したい。たとえば運動変化は、セラピストのハンドリングや筋力増強訓練だけによって、あるいはそれを中心に起きているのではないのだということをはっきりさせたい。運動の変化は、セラピストによらずとも、もっと自律的に起きているのだ。つまりアフォーダンスを中心にして。「運動はアフォーダンスを変化させ、変化したアフォーダンスは運動を変化させる」といった辺りをうまく評価と訓練実施に結びつけたいと思っている。



 最後にもう一度まとめておく。「我々セラピストの仕事は、運動を直接変化させることではない。運動変化そのものは、アフォーダンスを中心に患者さんが行うのである。我々はそのアフォーダンス、「価値を見いだす能力」を変化させる。たとえば身体の物理的能力(筋力や関節可動域など)、動機付け、環境操作(装具や家屋改造)などの手段を用いることによってである。」



★☆★☆★☆★☆★☆★☆引用終わり★☆★☆★☆★☆★☆★☆



人の運動変化について考える際には、一時的な運動変化と持続的な運動変化と分けて考えた方がいいようですね。そういえば僕もまだ若くて経験も浅かった頃、講習会などに行くと、講師の先生がデモンストレーションをすると患者さんの姿勢がその場で目に見えて変わって、「おおぉ、すごい!」と思ったりしたものでした。



でも、結局これは一時的な変化にすぎないんですね。その後CAMRを学び経験を積んで、一時的な変化なんて、いとも簡単に生み出すことができることに気づきました。


もちろん、それはそれで使い道があるので悪い事ではありません。セラピスト自身が、その違いを理解していることが重要なのです。違いをわかったうえで意図的に一時的な変化を使ったり探索しているのなら良いのですが、この違いがわからずに、いつまでも一時的な変化だけを延々と繰り返しながら「粘り強く繰り返すことが大切です」などと耳障りが良くてもっともらしいことを言うしかないようではちょっと困りますね、ということです。


そして最後のほうで「アフォーダンスを意識した訓練体系を確立したい」と述べられていますが、これが少しずつ進化しながら後のCAMR構築につながっていきます。



【引用・参考文献】
西尾幸敏:実用理論事典-道具としての理論(その1).上田法治療研究会会報, No.18, p17-29, 1995.
西尾幸敏:実用理論事典-道具としての理論(その2).上田法治療研究会会報, No.19, p1-15, 1995.
西尾幸敏:実用理論事典-道具としての理論(その3).上田法治療研究会会報, Vol.8 No.1, p12-31, 1996.
西尾幸敏:実用理論事典-道具としての理論(その4).上田法治療研究会会報, Vol.8 No.2, p76-94, 1996.
西尾幸敏:実用理論事典-道具としての理論(その5).上田法治療研究会会報, Vol.8 No.2, p120-135, 1996.
西尾幸敏:実用理論事典-道具としての理論(その6 最終回).上田法治療研究会会報, Vol.8 No.3, p120-135, 1996.



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アフォーダンス(その4)

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さて、「CAMRの胎動-解題!実用理論辞典」シリーズの続きです。
ここしばらく「還元主義」について取り上げてきました。還元主義は現在でも主流のアイデアではありますが、それだけではうまく説明できない現象もたくさんあります。それならば、別の視点も身に付けておいた方が良いのではないだろうか? というわけです。



それを踏まえた上で「アフォーダンス」に戻ります。
まずは、論文を見てみましょう。



★☆★☆★☆★☆★☆★☆以下引用★☆★☆★☆★☆★☆★☆



 私たちが環境から得ているアフォーダンスとは、結局知覚者にとっての価値あるいは意味のある情報のことである。環境はたくさんの情報を発している。と同時に、その情報を受けている私たち自身の体もたくさんの情報を発している。この二つの情報の相互作用から判断や行動が生まれる。私の親父が示した問題は、まさに自分自身の体が発している情報が急激に変化したため、知覚できる価値が変化してしまったということかもしれない。少し具体的に考えてみよう。



 佐々木がアフォーダンスの説明に使っている例を挙げてみよう。一本の橋がある。その橋は体重100キログラムの知覚者には「渡れない」と、体重50キログラムの知覚者には「渡れる」と知覚される。そこで50キログラムの人間に50キログラムの重りをつけることにする。重りをつけた途端に、それまで「渡れる」と知覚していた橋が「渡れない」と見え始めるわけではない。50キログラムの重りをつけた者が橋にある「渡れない」というアフォーダンスを知覚できるようになるまでは、かなりの時間をかけた環境との交渉の経験が必要だ。その後で、橋を片足で揺らしてみるかもしれない。これまで観察することのなかった橋の微妙なたわみに気がつくかもしれない。こうして「渡れない」というアフォーダンスを知覚できるようになる。



 親父の脳性運動障害を「重りをつけること」にたとえるのは少し安易だが、身体の発する情報が急激に変化したという意味では似たところもある。その変化によって、親父は適応的ではない行動や運動を繰り返す。しかし環境との相互作用を通じて再び、それまで見えていないアフォーダンスに気づき始める。たとえば退院当初は、孫たちが部屋中に散らかしたおもちゃを見て、「歩けん!」と怒っていた。床に所狭しとおかれたおもちゃやがらくたの類は、親父に「歩くことができん」とアフォードしていた。しかし現在では、あるおもちゃは「杖を使って向こうへ転がす」ことをアフォードするし、おもちゃ箱とクッションの間の隙間は、「割り込んで押しのけてしまう」ことをアフォードする。



 親父は環境を動き回ることによって、自分自身の潜在的な活動能力に気づきつつある。杖一本で障害物をどかし、テレビのスイッチを入れ、家具の足に持ち手をひっかけては、引っ張って立ち上がるなど。杖一本を使うにしても、様々な使い方、目的を持っていることに気づくようになる。障害物を避けるために横歩きの能力に気づき、孫がそばでうろうろしていることに対して自分の身が安全かどうかを判断するようになる。環境を知るための活動はまた、自分自身のことを知るための活動でもあったのだ。



 二年前、保健所の機能訓練事業で片麻痺のおじいちゃん、おばあちゃんにソーシャル・ダンスを教えたことがある。最初私には「どうせ正確にはできないんだから、できるようにやればいいや」という思いがあったし、彼らにしても「無理だ」という思いがあったらしい。ところがやっている間に不満が出始めたのである。それは「正しいダンスを教えてくれ」というものだ。実はその時点では、私自身も正しいルンバのステップを教えた方がいいと思い始めていた。できないと思っていたステップが、「実はできる」ということにお互い気づき始めていたのである。これも自分の身体の情報と回りの人たちからの情報との相互作用の結果、彼らのアフォーダンスが変化したからだと考えられる。かくして彼らは半年後に、発表会で華麗なボックスルンバを披露するに至った。誰一人自己流のステップで踊る人はいなかった。右片麻痺の人も左片麻痺の人もいろいろなパートナーと、同じステップで踊ることができるようになったのである。



 親父は発症後1年たつが、いまだに段の上り下りに「どっちの足から降りたらええんかいのう」とよく聞く。入院中に理学療法士から言われた「段を上がるときは良い方から、降りるときは悪い方から」ということに今でもこだわっているようだ。段を前にするとそのことを思い出し、そばに誰かいれば必ず聞くのである。「ええ方から上がりゃあよかったんかいのう。悪い方かいのう」



 もし自分で運動戦略を身につけたのなら、こんなことは起きないのだろう。最初に自分でいろいろ試す前に運動を他人に教えられたという経験が今でも残っているのではないだろうか。自分で試す前にすでに正解が存在しているとでも思っているのである。僕は必ず「好きな方から上がったら」といっている。そうすると使う脚は、状況に左右されることがわかる。本人はできると思ってやり、特に不安も感じていない。回りがとやかく言うよりも、自然に本人が学んでいく部分は多いのではないだろうか。


 「正解」として特定の数少ないパターンを教えることは、患者の選択肢を狭めることになるのかもしれない。また環境を探り自身のことを知る過程も、セラピストが教えたりすることではないかもしれない。患者さんは新しい身体状況とそれが環境との間に作り出す新しい関係を自ら学んでいけるのだから。だから私たちの仕事は教えることではなく、患者さんのアフォーダンスがより適応的に変化するよう手伝うことなのだろう。



★☆★☆★☆★☆★☆★☆引用終わり★☆★☆★☆★☆★☆★☆



最後の部分はとても示唆に富んでいます。
リハビリの臨床現場では、「正常運動パターン」を学習する、といったことがよく言われます。しかし、アフォーダンスを通して人の運動を眺めてみると、それがいかに的外れなことなのかがよくわかりますね。
反省しきりです・・・。



【引用・参考文献】
西尾幸敏:実用理論事典-道具としての理論(その1).上田法治療研究会会報, No.18, p17-29, 1995.
西尾幸敏:実用理論事典-道具としての理論(その2).上田法治療研究会会報, No.19, p1-15, 1995.
西尾幸敏:実用理論事典-道具としての理論(その3).上田法治療研究会会報, Vol.8 No.1, p12-31, 1996.
西尾幸敏:実用理論事典-道具としての理論(その4).上田法治療研究会会報, Vol.8 No.2, p76-94, 1996.
西尾幸敏:実用理論事典-道具としての理論(その5).上田法治療研究会会報, Vol.8 No.2, p120-135, 1996.
西尾幸敏:実用理論事典-道具としての理論(その6 最終回).上田法治療研究会会報, Vol.8 No.3, p120-135, 1996.



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