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カオス(その1)

目安時間:約 7分

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さて、「CAMRの胎動-解題!実用理論辞典」シリーズの続きで、今回はカオス(その1)です。
流れ的には少し振り出しに戻るような感じなのですが、とても重要な内容ですので取り上げました。
まずは、論文を見てみましょう。



★☆★☆★☆★☆★☆★☆以下引用★☆★☆★☆★☆★☆★☆



 これまでのところ、複雑な現象をそれぞれ単独の構成要素に分解して、その振る舞いを調べても結局全体の結果との関係を明確にできない、と述べてきた。そこで関係を明確にするための尺度をこれまでとはまるっきり変えてみたらどうだろう。まるっきりこれまでとは違う尺度で同じ現象を見ると、それまではっきりしなかった物が明確になってくることがある。



 丁度、最近流行の立体図を見るような物だ。普通に見る限りでは、ランダムな点の集合にしか見えないのだが、寄り目になるようにして見ると、突然そのランダムな点の図から、鮮明な立体像が浮き出すのである。そのこれまでとはまるっきり違った尺度を提供するのが、アフォーダンス理論やこのカオス理論であると私は考えている。



 さて、カオスとは何だろうか?私の考えるところでは、(ほんとに私は勝手にものを考えるのが好きである)カオスは、ある現象の性質を表す言葉である。たとえば祭りという現象を言い表すときには、「にぎやか」とか「心うきうき」、「非日常的」などと表現する。どの表現もそれなりにしっくりくるものである。



 ところが世の中には、なんと表現して良いのかわからない性質がある。たとえば人の運動である。以前述べたように、人は同じ運動を繰り返すのが苦手である。プロゴルファーのスウィングを分解写真のような物で記録してみよう。一回一回で見ると、決して細かいところは同じ運動を繰り返していないことがわかる。プロでさえそうなのだから、アマチュアはどんなにひどいことか。それにも関わらず、全体としては紛れもなく、見てそれと分かるその人固有のフォームを作る。つまり同じ運動を繰り返していないのに、その人らしさを失うこともない。細かいところは違っていても、その人の雰囲気だけは安定している。



 また従来複雑な予測しがたい現象は複雑なシステムから、簡単な現象は簡単なシステムから生じると考えられてきた。ところが人のような複雑な運動システムからは「位相図」で述べたような比較的安定した単純な運動が出てくるし、水を温めるといった単純なシステムから、予測不可能な複雑な運動が生まれる。このような性質も言い表しがたい。



 しだ類のような植物を見てみよう。茎の分かれ方や葉の付き方は、一見すると規則正しく見えるのだが、良く見るといくつも不規則さを見つけだせる。子どもの頃、規則正しくないのが納得できず、次から次へと枝を取っては確かめたことがある。葉の付き方などになんだかそれらしいきまりが見られそうなのだが、あるいは直感的にはきまりがあるはずだと思いながらも、それを見つけられないもどかしさがあった。実際には2~3の簡単な規則で、しだの葉の形はコンピュータ上に再現できるのであるから、直感は正しかったわけだ。いずれにしても見ただけでは、規則正しいとも正しくないともいいがたい。



 前項の「位相空間」を見ていただきたい。人の運動は決して前と同じ軌跡を繰り返さない。しかも中には随分違った軌跡もある。だからといって、この運動の性質を規則正しくないとは言えない。なぜならその軌跡は飛び出すことなくある範囲内にとどまっている。これは正確に同じ軌跡を繰り返すと言った秩序ではないが、無秩序とは言えない何らかの秩序を持っているのに違いない。その性質、これまでの見方では秩序など見られないのだが、それでも何らかの秩序を持っているといった性質をカオスと(カオス学者達は)呼んでいるのではないだろうか。



 カオスは従来、「無秩序」と訳されてきたが、この訳語がふさわしくないのは上に述べたとおり。とりあえずここでは従来の見方では秩序があるとは言えないが、決して無秩序とは言えない性質をカオスと呼ぶことにする。



 このカオスと呼べる性質を持った現象は身の回りにたくさんあるらしい。株価の変動から、日々繰り返す天気、生物の個体数の増減、心臓の鼓動、呼吸・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・その他たくさん。



ここで言っておきたいのは、もし人の運動がカオスという性質を持っているなら、その運動を変化させようとする私たちはそれを知っておく必要があるのではないだろうか、ということだ。そのうち、このアイデアを基にした運動変化のモデルが本シリーズで紹介される予定である。そのモデルからは訓練場面での新しい価値や意味が提案されるはずである。



★☆★☆★☆★☆★☆★☆引用終わり★☆★☆★☆★☆★☆★☆



カオスや複雑系と言ったアイデアが一時期流行りましたね。これらは画期的なアイデアで、世界がこれまでとは違ったふうに見えるような気がしたものでした。
そして、人の運動を見る際にもとても示唆に富んだ視点を提供してます。大まかな内容くらいは理解しておきたいものですね。



【引用・参考文献】
西尾幸敏:実用理論事典-道具としての理論(その1).上田法治療研究会会報, No.18, p17-29, 1995.
西尾幸敏:実用理論事典-道具としての理論(その2).上田法治療研究会会報, No.19, p1-15, 1995.
西尾幸敏:実用理論事典-道具としての理論(その3).上田法治療研究会会報, Vol.8 No.1, p12-31, 1996.
西尾幸敏:実用理論事典-道具としての理論(その4).上田法治療研究会会報, Vol.8 No.2, p76-94, 1996.
西尾幸敏:実用理論事典-道具としての理論(その5).上田法治療研究会会報, Vol.8 No.2, p120-135, 1996.
西尾幸敏:実用理論事典-道具としての理論(その6 最終回).上田法治療研究会会報, Vol.8 No.3, p120-135, 1996.



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生態学的測定法(その2)

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さて、「CAMRの胎動-解題!実用理論辞典」シリーズの続きで、今回は生態学的測定法(その2)です。
まずは、論文を見てみましょう。



★☆★☆★☆★☆★☆★☆以下引用★☆★☆★☆★☆★☆★☆



ここではこのアイデアを違った視点から検討してみたい。私の勉強会の学生の一人はこのアイデアに即座に反論した。「どのくらいの幅なら通れるか、通れないかを判断してもらってもしかたないんじゃありませんか。実際にできるかどうかが問題だと思います。いくらできると判断しても実際にはできないこともあるんですから。実際に通ってもらって最小の幅をその人の能力と考えるべきではありませんか。」つまりその人がどう判断するかよりも、その人が実際に持っている物理的な能力の方が重要なのだ、とその学生は言いたかったのである。案外、生態学的な視点と物理学的な視点との境界線はそのあたりにあるのだろう。



 実際には、「できる」と考えることと「できない」と考えることは大きな結果の違いを生む。少し話をそらします。私がアメリカに留学しているときに、一人の若い日本人と友人になった。二人とも同じ英会話学校に通い、ともに「トシ」というニックネームを持っていた。彼は何事にも積極的で、よく私を誘っていろいろなところに行き、いろんなものを食べ、いろんな人と友達になった。一方私と言えば、彼のする事をそばで見ていたものだ。元来引っ込み思案でもあるが、心に常にあったのは「私は英語が理解できないし、しゃべれないからな」という思いであった。「もう少し理解できれば、もう少し話せれば、いろんな経験ができるのに・・・・」という無念の思いであった。ところがある日、英会話の能力試験を受けた結果、もう一人の「トシ」の英語の理解力は私とたいして変わらないことを知って愕然とした。私は自分自身会話ができないと思うことにより、自らの行動を制限していたのである。実際にもう一人の「トシ」と同じ程度の能力を持っているかどうかが問題なのではなく、その能力を使えるかどうか、つまり「できる」と思えるかどうかが問題だったのだ。



 これまでは実際にできる、できないだけが評価の基本だった。実際に「できる」「できない」だけを評価するのは、英会話の試験のようなもので、必ずしも日常生活の様子を反映していない。また筋力検査や関節可動域の測定は、物理学の視点から能力を見ているにすぎない。それによって測定された能力が、うまくがたがた道で発揮できるかどうかはまた別問題である。人は機械ではない。だからこそ、生態学的な枠組みが必要になってくるのではないだろうか。



 実際「できる」と思えることは、その人の実生活での行動範囲を広げることになる。そういった判断が、訓練と共に変化するとすれば、それこそ私たちの知りたいことではないだろうか。ある人が、自らの身体の物理的な能力がある環境の中でどのように発揮されると考えるかを評価するのは、人と「環境」との相互作用である運動を見ていくことになるのである。



 もちろん、実際にやってもらうことも必要だ。患者さんができると思っても実際には失敗するかもしれない。そこで僕は、「人の判断」を中心にして、それに続く「実際の運動」を絡めて、運動評価の基本にしようと提案しているわけである。が、これを実行しようとするといくつかの問題が出てくる。この問題は次回から検討しよう。



 留学したての頃には、レストランの前でよく自問自答したものだ。「うまくやれるか?」「やっぱりやめとこう、大学のカフェテリアまで我慢しよう。あそこならうまくやれる。」それから8カ月くらいたった頃には、私一人での行動範囲はかなり広がった。初めてのレストランを前にして、「うまく振る舞えるか?」「まあ、なんとかなるだろう。」と思うから、その店に入り貴重な経験が積めたのである。



★☆★☆★☆★☆★☆★☆引用終わり★☆★☆★☆★☆★☆★☆



従来的な評価項目というのは物理的な視点に偏りすぎているのかもしれません。しかし実際の人の運動を見ると、行為の前提条件として、その行為の安全性や可能性について自覚的にせよ無自覚的にせよ何らかの判断をしていると思われます。



道を歩いていて前方に溝があったとしても、その幅が20cm程度なら簡単に跨ぎ越してしまうでしょうけど、幅150cmだったらどうでしょうか? 
安全に溝を跨ぎ越すことができない、あるいはできるかどうかわからないと思ったら、一旦歩くのをやめて、もっと幅が狭くなっているところを探したりするかもしれませんね。



生態学的な枠組みというのは、このような行為の前提条件さえも視野に含んでいます。運動に関わる専門家にとって、とても重要な視点を提供してくれているように思うのですが、いかがでしょうか?



【引用・参考文献】
西尾幸敏:実用理論事典-道具としての理論(その1).上田法治療研究会会報, No.18, p17-29, 1995.
西尾幸敏:実用理論事典-道具としての理論(その2).上田法治療研究会会報, No.19, p1-15, 1995.
西尾幸敏:実用理論事典-道具としての理論(その3).上田法治療研究会会報, Vol.8 No.1, p12-31, 1996.
西尾幸敏:実用理論事典-道具としての理論(その4).上田法治療研究会会報, Vol.8 No.2, p76-94, 1996.
西尾幸敏:実用理論事典-道具としての理論(その5).上田法治療研究会会報, Vol.8 No.2, p120-135, 1996.
西尾幸敏:実用理論事典-道具としての理論(その6 最終回).上田法治療研究会会報, Vol.8 No.3, p120-135, 1996.



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生態学的測定法(その1)

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さて、「CAMRの胎動-解題!実用理論辞典」シリーズの続きで、今回は生態学的測定法(その1)
まずは、論文を見てみましょう。



★☆★☆★☆★☆★☆★☆以下引用★☆★☆★☆★☆★☆★☆



 結局ここでの私の主張は、人の運動を要素に分けたりしないで、全体的に測定できないだろうかという点に集約される。つまり人の運動は変化するのだが、たとえば認知の問題で変化している間は、いくら筋力や関節可動域を測定しても、人の運動変化を説明することなどできない。また、仮に同時に筋力や可動域や認知、その他動機などを同時に評価できたところで、それからどのように総合的な評価を下すというのか?バラバラの評価から、1つの結果を予測できるのなら、誰も最初から苦労などしないのである。



 前回の話を思い出していただきたい。片麻痺の父親は、最初壁と自転車で作られたすき間を見たときに、「わしはここを通れん。自転車を倒すじゃろう。」と言った。ところが、横歩きを試した後では、「通れるかもしれん」と言いだし、実際に通ってしまった。いっそのこと、「どのくらいの狭さまでなら通れると思う?」などと親父に聞いてみたら良かったのかもしれない。なぜならば「できる」「できない」の判断は、その人の身体的能力の認知や精神的な状態、環境との相互作用の結果だからである。最初に自転車と壁の間が80センチあったとする。運動戦略や身体認知の変化が起こって、「通れる」幅が50センチになったとすれば、より狭い場所での移動が可能になることを意味する。



 それはさまざまな構成要素の相互作用の結果である。私たちはそれを追い続けることによって、その人の運動が全体としてどのように変化するかを理解できるのではないだろうか。ちょうどゲーテがプリズムをのぞいて色を理解したように、私たちは患者さんの判断を通して行動能力のレベルや運動変化を理解できないだろうか。



 ただこのように単純に物理的な数値で表すと、他人との比較が難しくなる。たとえば40センチは一般的にいって狭いのだろうか、広いのだろうか?これには第一に体の大きさが関係していることが考えられる。体が大きければ通れる最小幅は当然大きい。じゃあ、体の大きさを基準にして、通れる幅がどうなのかを考えればよい。そうすれば以下に紹介するように、標準値らしいものが出てくるのである。



 具体例を見てみよう。カエルは前方の植物の茎などのすき間が自身の頭部の幅の1.3倍以上ないと飛び出さない。スライドで壁にさまざまな高さのバーを写し、どの程度の高さまで手を使わずに登れるかを大学生に視覚的に判断させると、被験者の股下の長さ、0.88倍のところがぎりぎりだった。視覚だけを頼りに、手を使わずに座れる椅子の高さは脚長の0.9倍の高さの椅子であり、バーが「くぐれる」か「くぐれない」かをたずねると、脚長の1.07倍のところを境に答えは変わる。ここであげているのは体の大きさと視覚的情報との相互作用の結果、出てきている数値である。老人では全身の柔軟性の方が脚長よりも、「登れる最大の段の高さ」の基準として適切らしい。



 このように身体の大きさ、柔軟性、能力を基にして、環境との相互作用の結果を表すための尺度を使った測定法を生態学的測定法と呼ぶ。下肢長の1.1倍とか、安静歩行時の心拍数の2倍である。これらの数値は体格や身長に関わりなく、比率自体は普遍性を持っているらしい。物理的な測定値も、身体やその機能を基にして尺度を考え直すことによって新たな視点が見えてくるが、それはまた次回の話。



★☆★☆★☆★☆★☆★☆引用終わり★☆★☆★☆★☆★☆★☆



基本的に僕たちは、以前取り上げた「還元主義」に基づく考え方の影響を大きく受けています。それはそれでいいのですが、もしも有益な別の考え方があるのなら、それも身に付けておいた方が有利で便利でしょう、と述べてきました。



前回までの「アフォーダンス」や今回取り上げた「生態学的測定法」は、「還元主義」とは異なるパラダイムに基づいたものです。どちらの考え方もとても大事なのですが、僕たちが新たに学ぶ必要があるのは圧倒的にニュートンの視点ではなく、ゲーテの視点だとも言いました。「アフォーダンス」や「生態学的測定法」は、それを学ぶよいきっかけになるのではないかと思います。



【引用・参考文献】
西尾幸敏:実用理論事典-道具としての理論(その1).上田法治療研究会会報, No.18, p17-29, 1995.
西尾幸敏:実用理論事典-道具としての理論(その2).上田法治療研究会会報, No.19, p1-15, 1995.
西尾幸敏:実用理論事典-道具としての理論(その3).上田法治療研究会会報, Vol.8 No.1, p12-31, 1996.
西尾幸敏:実用理論事典-道具としての理論(その4).上田法治療研究会会報, Vol.8 No.2, p76-94, 1996.
西尾幸敏:実用理論事典-道具としての理論(その5).上田法治療研究会会報, Vol.8 No.2, p120-135, 1996.
西尾幸敏:実用理論事典-道具としての理論(その6 最終回).上田法治療研究会会報, Vol.8 No.3, p120-135, 1996.



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